きくちさかえ
出産育児環境研究会代表・立教大学兼任講師
お産をめぐっては多様なかかわり方が存在する。医療者,当事者(出産する本人),家族,支援者,研究者,行政などさまざまな人々が,それぞれの立ち位置からお産とかかわり,語っている。REBORN は,そんな人々の横のつながりをつくることを目指して,ネットワークづくりと情報発信を行なってきた。REBORN のスタッフは13名中2名が医療者だが,それ以外は医療者ではない。それが,むしろさまざまな業種をつなげる橋渡しを生み出してきたと思っている。発信した情報もまた,当事者の目線で捉えたその時代の「お産」に関する情報だった。REBORN は,当事者目線でお産を語り,お産文化を伝達しようとしてきたのだ。
欧米の自然出産運動は,1960〜1970年代,ラマーズやブラッドリーなど医師が考案した出産準備法に,当時のウーマンリブ(女性解放)運動が呼応した形で広まった。そのなかで「身体を取り戻す」というキーワードが語られ,医療に管理された出産身体に対して,女性たちは自らの身体を「取り戻そう」としたのである。この言葉は今思うと,「取り戻す身体」がまだそこにあったことがうかがえて,とても興味深い。70年代後半には日本にもラマーズ法が広がり,80年代はラマーズ法が自然出産の代名詞となった。
80年代後半になると,日本にも次のムーブメントがお目見えした。アメリカ,イギリスなどでは自然出産運動からすでに20年あまりが経過し,ポスト・ラマーズの機運が高まっていた。そこには「アクティブ・バース」「ホーム・バース」「水中出産」というキーワードが並び,「出産の主役は産む母と生まれる子ども」であることが強調された。また出産姿勢,出産場所の選択が提示された点も特徴的で,出産姿勢の選択はその後に続くフリースタイル出産の基礎となった。
その当時,日本にもローカルには母親たちの市民グループがあったものの,インターネットや携帯がない時代だったから,互いに遠くから存在を知っていたとしてもネットワークの手段をもっていなかった。それでも,全国に同じ思いをもつ人がいる,ということを知るだけで,なんだかとても心強く思えたものだ。
それぞれの活動をつなぐことで少しでも大きな力にできないだろうか。欧米での実践を見てきた河合と私は,日本でもお産のネットワークを構築したいと1993年にREBORN を結成し,ネットワークを呼び掛けた。そして,全国各地の市民グループが集結して1994年の「いいお産の日」開催につながったのである。「いいお産の日」は,当事者と医療者がともにお産を考える場だった。
1998年は,助産婦の存在が危うい立場に立たされた年だった。欧米諸国の趨勢と男女雇用機会均等の立場から,看護師・保健師と同様に男性助産士の導入や,助産婦から助産師へ名称が変更されることが検討されていた。出産施設の集約化も言われはじめていた頃だ。その年REBORN は,お産文化研究会(岡本喜代子代表)の支援を受けて,「にっぽんの助産婦戦前,戦中,戦後のしごと」という連載をはじめた。
明治後期・大正時代生まれの方々を中心に話を聞き,記述する試みは2007年まで続き,北海道から沖縄まで,24 名にインタビューを行なった。当初は,助産の技を継承するという目的だったが,それだけにとどまらず,太平洋戦争前後の社会的背景や暮らしの話をうかがうことになった。今,その方々のほとんどが他界している。この時期にしか聞けなかった貴重な話だ。それを2008年に自費出版の本『にっぽんの助産婦 昭和のしごと』としてまとめ,2010年にはその一部の映像を『DVD映像版 にっぽんの助産婦 昭和のしごと』に収めた。
ベテラン助産婦たちは昔かかわったお産の話を雄弁に語ってくださったが,体験者側の思いや助産婦が介助しなかったお産の実態を聞くことは難しかったので,私は当時の女性たちの話も聞いて回った。出産体験者はどこにでもいたし,1 人ひとりの体験は耳を傾けるに足る価値があった。とりわけ山間部や離島では,医療に頼らず「あたりまえの営み」として日常のなかで産んでいた女性たちの姿があった。当時,自宅出産を介助していた助産婦たちは,医学教育を受けた母子保健の専門家として,携わった出産を客観的に対象化し,説明するすべを心得ていたのとは対照的に,女性たちの言葉は少なかった。当時は現在のように,産む人が自分の言葉で体験を語る場や機会を与えられていなかったし,「私が産む」「私のお産」という認識や,お産を自分のこととして捉える「当事者意識」をもち合わせてはいなかった。
当時の女性たちの身体は「嫁」であり,自分の身体でありながらそれはイエの身体だったのである。そして彼女たち自身もまた,「みんなが産むから自分も」という集合的な身体として,自らを捉えていたように思える。当時の女性たちへのインタビューによって,一般の女性たちが当事者としての自覚をもったのは,日本ではラマーズ法に代表される自然出産の潮流がきっかけだったということが,改めてわかったのである。
90年代,「いいお産の日」に参加した出産・育児関係の市民グループのほとんどは,その役目を終え解散している。今,お産や母乳哺育をめぐる情報はもっぱらインターネットによって流通していて,その情報で満足しているということなのか,新しいグループを結成する人は少なくなっている。
その理由としては,出産医療の質が90年代より高まったこと,そしてお産に対するニーズが多様化して,個別的な問題として捉えられるようになったことが考えられる。REBORN でも取り上げてきたEBM(evidence-based medicine)が,産科領域に広がったことによって,会陰切開・浣腸・剃毛などといった近代的な医療介入が必要でないことが明らかにされ,実施率が低下した。また産婦がお客さま扱いされるようになったことも,少なからず影響しているかもしれない。
女性たちは当事者というより消費者となり,出産サービスを買う人にまつりあげられた。女性たちは選択肢のなかからサービスを選ぶ権利を与えられたが,それは裏を返せばサービスを消費する行為でもある。商品を並べられて,そのなかから気に入ったものを選んで買う。商品は十分な品揃えのように見える。選んで買えばいいだけだ。しかし,商品を買う消費という行為は,金と引き換えであるがゆえに,そこに価格以上の価値を見出すことは難しい。もしかしたら本当に望んでいるものは,そこに並んでいる商品以外かもしれないということは見えにくくなっているし,何かを自らつくり出すことによる喜びや,手探りで身体を感じる体験は商品になりにくいということ自体を,忘れさせてしまう構造がそこにはある。とはいえ現在では,提示された選択肢を無批判に受け入れることに違和感を覚えるという声を,ほとんど聞くことはできなくなっているのは,残念なことだ。
もしもREBORN がなかったらと改めて考えてみると,ニューズレターや復刻版は今,存在していなかった。「いいお産の日」という名前のイベントも誕生しなかっただろう。もしもREBORN がなかったら,出産・母乳哺育にかかわる仕事を自らつくり出す専業主婦もいなかったかもしれない。彼女たちは起業家やジャーナリスト,研究者,プロの支援者,写真家など,妊娠・出産・育児を基軸にした職業を自ら開発することもなく,またその活躍を見ている次世代に出会うこともなかった。
もしもREBORN がなかったら,そもそもREBORN スタッフは存在しなかった。ありがたいことにスタッフはそれぞれ,REBORN にかかわるネットワークと,そこでの仕事にかかわることによって育てられてきた。20年間という日々の流れと,周囲の方々の支援のおかげだ。
REBORN は今年,自らを収載するために復刻版を発刊したが,それはこの国で1990〜2000年代に女性が自ら出産について考え,当事者と医療者とのネットワークを構築し,情報を発信していた動きがあったという足跡を残す作業だった。今後,お産の当事者がどのような問題に直面し,それをどのように克服していくのかは未知数だけれど,そうした何らかの動きが生まれてきた時に,REBORN のやってきたことが1 つのヒントになればと願っている。
さて,これから日本のお産はどうなっていくのだろう。今お産は,少子化と人口減少の視点からも注目されるようになってきた。社会全体で考えなければならない課題だということがさらに認識されるようになれば,医療や当事者の領域を超えた横断的視点が必要になるだろう。これまで出産医療と少子化は異なった領域で語られてきた。そもそもここまで少子化が進み,人口減少を招くことになろうとは人々は予測もしていなかった。しかし今後の出産医療は,そうした社会的傾向を見越したうえで,あり方を検討しなければならない時代になってきている。
少子化対策として,生殖補助医療への支援を手厚くする一方で,産む・生まれることに対して希望をもたせる支援が必要とされている。女性たちに寄り添うことは,助産師がもっとも力を発揮できる分野だ。日本は世界的に見ても,自然出産を大事に守り続けてきた国だし,その優れた助産の技術を見習う国はいくつもある。
語る希望は,助産のスタンダードが基礎となる。お産は新しく更新され続ける医療技術の対象というだけでなく,サルやチンパンジーの時代から続く動物としての営みでもある。その本質が危ぶまれている時代だからこそ,何度でもくり返し出産のスタンダードを確認しなければならないし,その言葉を次世代に語りついでいかなければならないと思う。言うまでもなく,その中心的な担い手は助産師である。