REBORNは2014年に活動開始から20年という節目を迎え、ゆかりの方々と記念イベントを行ったあと、
長年の活動を報告する連載記事を『助産雑誌』にスタッフで分担執筆しました。
その全文を、一部改編してここに掲載します。(スタッフの肩書きは2015年現在のものです)
【初出】助産雑誌(医学書院)Vol 68,No7〜9
河合 蘭
出産ジャーナリスト
私たち「産む人と医療者をつなぐネットワークREBORN 」は2013年に20周年を迎えた。REBORN ができた1990年代のことを思い出すと,海外の自然出産ムーブメントに出会った時の興奮が昨日のことのようによみがえる。REBORN は,女性たちが,誰かに指図され管理される存在としてではなく,自ら感じ,考え,決められる存在として,生活のなかで愛の行為のひとつとして子どもを産みたいと要求している欧米女性の姿に触発されて始まった。
私が女性側からの「こんなお産がしたい」と求めるムーブメントに触れたのは,出産の取材活動を始めて間もないころだった。ムーブメントの世界的な中心人物である人類学者のシーラ・キッツインガー女史の来日講演会が最初だった。在日欧米女性の出産準備教育を行なっていた女性が開いたその小さな会に出かけたところ, 私は会場で2人の女性と知り合った。
そのうちのひとりは日本にラマーズ法を伝えた米国人バースエデュケーターの清水ルイーズさんだ。自宅をたずねると,出産本が詰まった彼女の本棚は,女性による女性のための本がいっぱいだった。欧米では理学療法士, 心理療法士,写真家など,さまざまなバックグラウンドをもつ女性たちが素晴らしい出産サポーターになっていたのだ。
まだ助産院でも仰臥位出産が普通たった時代,私は欧米女性たちの主張する生理的な方法に強く賛同した。私はその時すでに取材経験から現代出産の矛盾点には気づいていたが, 欧米の女性たちはそれを見事に言語化し,理論付けもできていた。
そして,本はどのページも女性の自尊心が高まるように書かれていた。当時の欧米では,「出産は今のままでいいのか」という疑問は, 単なる医療問題などではなかった。それは, 女性が出産や育児を女性ならではの方法で成し遂げ, それによって人生のあらゆる場面でもっと自分の視点を生かし, 力強く生きたいという願いに結びついていた。
欧米の女性たちのもうひとつのすごいところは, ネットワークをつくって,知識を広めていることだった。日本でも,いつかネットワークができるのだろうか。見渡せば,国内にも, 日本の出産は医療の効率が優先され過ぎている, と考えている人たちはいる。私はライターなのでそうした人たちの取材に行くようになっていった。しかし, まだインターネットの時代も明けていなくて, その人たち同士がなかなか出会えないことが残念だった。
私の頭のなかに浮かんでは消えるそんな思いをすくいあげるように, 突然「ネットワークをつくりませんか」と言ってきたのが, キッツィンガー女史の講演で知り合ったもうひとりの人である, きくちさかえさんだった。私たちは,2人とも文章を書く仕事をしていたので, ニュースレターを創刊しようということになった。
ネットワークの名前は,「お産が生まれ変わるように」という願いをこめて「REBORN ( 再生)」と命名することにした。きくちさんと私のアドレス帳から購読してくれそうな知人をピックアップして案内を郵送すると,ほとんどの人から申し込みがあり,創刊号は84部発送した。それが, まもなく朝日新聞(1993年10月8日付),毎日新聞(同年11月18日付)の紙面で紹介されると購読者は一気に450名になり,やがて約1,000名で安定した。そしてREBORN の仕事を手伝いたいと申し出てくれる人も次々と現れ,REBORN はライター,編集者, 育児支援クラスの主宰者, 助産師, 社会学者, 漫画家, 母親など多彩なスタッフのいるにぎやかなチームになっていった。
20年間の活動を振り返ると,3つのキーワードが思い浮かぶ。それは「ネットワーク」「エンパワーメント」そして「EBM(根拠に基づく医療 Ebidence Based Medicine) 」だ。最後のEBM は意外に聞こえるかもしれないが,実はREBORNは,創刊早々にWHO (世界保健機関)のヨーロッパ地域事務局およびアメリカ地域事務局が出した正常出産に関する勧告「出産科学技術についての勧告」を日本で初めて紹介している。
当時,陣痛促進剤の社会的適応について社会的議論が巻き起こってREBORN の第2号で大きく扱ったのだが, その時, バースエデュケーター・戸田律子さんが「社会的適応はWHO 勧告に反している」と勧告の一部を紹介した英文記事を送ってくれたのだ。戸田さんはアクティブバースの指導法を学んで英国から帰国したばかりだったので, この勧告を知っていた。これはのちに邦訳版『WHO の59カ条お産のケア実践ガイド』(農文協,1997年) が出版された勧告のもとになった勧告である。WHOヨーロッパ事務局が中心になり, ブラジルのフォルタレザで開催されたコンセンサス・ミーティングでつくられた。国際的にはLancet にも掲載された勧告だが,日本ではまったく知られていなかった。
勧告の内容は「会陰切開を慣例的に行なうことは,正当ではありません」「健康な新生児は母親と一緒にいるべきです」など, 私たちが求めていたことをWHO が正当と認め勧めるという驚くべき内容だった。海外では, 出産について,ここまで疫学的検証が進んでいたのかと驚いた。
この時、私は厚生省(当時)やWHO の日本事務局にも問い合わせた。だが,誰もこの勧告のことは知らなかったし,話してみてもまったく関心をもたれなかった。そこで『REBORN 』第3号は,「日本にも優しいお産の波を……」と題して,トップページで1985年に出された勧告の訳文(抜粋)を掲載した。勧告が出てから8年も遅れたニュースだった。
さらに, 勧告の全文や勧告成立の推移も知りたくなって,ある日の夜中,WHO 事務局の電話番号を調べて国際電話をかけた。すると,即座に勧告の仕掛け人,マースデン・ワグナー氏から自著“Pursuing The Birth Machine ”が送られてきたので勧告の詳細を知ることができた。
その後,WHOが正常出産に関する次の勧告と解説をまとめたブックレット“Care in Normal Birth”を出した時も,すぐWHO からまとめ買いをして希望者に実費で分けた。のちに“PursuingThe Birth Machine (『WHO勧告にみる望ましい周産期ケアとその根拠』メディカ出版,2002年)”とCare in Normal Birth ”(『WHO の59カ条』農文協,1997年)は日本語版が出た。
1歳を迎えたREBORN は,戸田さんの「11月3日(1103)を“いいお産の日”に制定しよう」というアイディアを受け,外部の人も入っだ実行委員会の支えも得て,1周年記念イベント「第1回いいお産の日」を開催した。詳細は連載後半にゆずるが,シーラ・キッツィンガー女史を英国から迎えた講演会,出産,育児の自主グループのブース出展や会議,助産師さんたちの「癒しの部屋」など,内容はとても充実していた。第2回までREBORNが主催し,2回目の動員数は1400名にのぼって手作りイベントとしてはたいへんな規模になった。
いいお産の日がクリエイトしたユニークな企画のひとつに「ご安産一座」がある。これは,ミーティングで「分娩台を展示して試乗できるようにしてはどうか」というアイディアが出されたのが始まりだった。すぐに,この企画こそ,分娩室という密室の壁を取り払うものだと思った。そこで,たまたま取材に行った学会に出展していた分娩台メーカーに早速声をかけてみると,二つ返事で「いいですよ」と言ってもらえて,会場に分娩台がやって来ることになった。
さらに, 日本赤十字社医療センターからは医療機器もいろいろと貸していただけることになり,同病院の助産師さんである中根直子さんと説明方法を考えているうちに,「展示物を使ってお産劇をやってみようか」というアイデアが生まれた。早速,日頃からREBORN を応援してくれていた現役医師,助産師さんに来てもらう約束をとりつけて即席の劇団ができた。当日来ていただき,毎日やっていることを再現してもらうだけなのだが,何しろ本人の役をするので全員がとても上手い。そして, 産婦役を頼んだ助産師の中沢裕里さんの迫真の演技は来場者を圧倒した。
この分娩劇は分娩台上のお産だけではなく,フロアの上でナチュラルなまま静かに進行するフリースタイル出産も行なった。「こんなふうに産むこともできるんですよ」というメッセージを伝えたかったのだ。フリースタイル出産は,そもそもきくちさんが『アクティブ・バース』(現代書館,1989年,現在は『ニュー・アクティブ・バース』)訳者のひとりであり,REBORN が最も普及に熱心だったもののひとつである。
いいお産の日の第2回が終わったあとは「フリースタイル出産ワークショップ」をJIMON と共同で開催した。これは自由な体位での介助を学べる全国初の学習会だったので,すぐ定員になってしまい何度も開催した。私はちょうど第3子の妊娠中で,心音聴取のモデルができたが,そのうち子どもは生まれてしまい,それでもワークショップは続いて,『助産婦雑誌』でも36ページにも及ぶ大特集が組まれた。ビデオ教材(現在はDVD)の『もっと自由な出産を』も作った。これらを手がかりに,全国で意欲的な出産施設が続々とフリースタイル出産のスタートを切った。
「フリースタイル出産」という言葉は,いち早く自由な体位での分娩介助を始めていたファン助産院院長の杉山富士子さんが使っていた言葉で,このワークショップのタイトルに使ったところ全国的に定着した。当時は,たとえ産む側が自由な分娩体位を望んでも, それは従来の方法とは違うので難しく,取材をしてみると経験の少ないところでは尿道の裂傷が起きていることもわかった。その状況を変えるために,すでにご自身の貴重な試行錯誤から技術をみがいていた杉山さんと,杉山さんの助産院に勤務するなどして経験を積んでいたJIMON の助産師さんたちに講師をしてもらった。
REBORN は,納得できる方針をもつ医療者と産む人の出会いのために,「REBORN 産院リス卜」という大事業も行なった。産院情報は, 今も昔も妊婦さんが最も欲しい情報のひとつである。REBORN ができた当初から, 母親グループ等が地域の産院情報をまとめて冊子にするという動きは首都圏, 関西を中心にすでに起きていた。ただ, そうした動きは医療側の強い反感を買ってしまうことも珍しくなかった。そうした悩みを抱えるグループ, もしくはその悩みによって消えていくグループを見て,「REBORN には,限定的ではあっても医療とのパイプがある。何の縁もないなかでがんばっている女性たちがいるのに,REBORN が何もしないのはだめだ」と感じた。そこで人間関係のある出産施設,関係ができている人から教えてもらった施設などからアプローチして,産院情報作成という膨大な作業にとりかかった。
最初は冊子『REBORN 産院リスト1999〜2000年版』をつくったが,新聞にも多数紹介されて受付電話が嗚りっぱなしになった。その後は『お産選びマニュアル』巻末一覧表を経て,最終的には翌年2001年に念願のウェブサイト『REBORN 』を立ち上げ, そこですべてを無料で公開した。このコンテンツは規模を拡大しながら2011年まで続けた。
公開の頃は「インターネットによる情報公開が社会を変える」というフレーズがよく聞かれた時代たった。REBORN もそんな夢を託して,WHO 勧告が着目したような指標を情報公開したのだった。質問はスタッフ数や帝王切開,会陰切開, 陣痛促進剤などの医療介入の実施率,夫や子どもの立ち会い, 母乳育児の方針などで項目数はかなりの数にのぼった。途中で, 産院は, 私たちが聞きたかった上記のようなことについてあまり統計をとっていないことがわかってきて,「業務が忙しいのに負担をかけている」と申しわけなく思ったこともある。
しかし,データ分析はケア検証の第一歩でもある。REBORN 産院リストのためにわざわざ集計をしてくれて, それを「振り返りになってよかった」と言ってくれた方もいた。また「私たちのデータは他施設に較べよくないだろうけれど, これを改善の契機にします」と言ってくれた方もいた。
そんな, とても前向きな人たちが情報公開を支えてくれた。振り返ると,周りにはいつもパワフルでポジティブな人たちがいっぱいいて,REBORN の初期の日々は瞬く間に過ぎていった。
〈参考文献〉
1)きくちさかえ,河合蘭:同じ思いの人をつなぐネットワーク情報紙の誕生「REBORN 」共通項は「お産を変えていこう」/ 創刊2 か月, 続々と参加メンバーが. 助産婦雑誌,48(1):63−68,1994 .
2) クローズアップ お産が変わる.11/03 「いいお産の日」のしかけ人 きくちさかえ,河合蘭,戸田律子さん. 助産婦雑誌,49(1):1 ,1995 .
3) 河合蘭, 宮崎雅子: みんながそれぞれいいお産について考えた一日「いいお産の日」レポートいいお産の日. 助産婦雑誌,49(1):58−63,1995 .
4) 式田秀子:Women's Movement11 お産のホントの情報の広がりを. 看護学雑誌,59(8):802−805,1995 .
5) 河合蘭, 杉山富士子, 赤山美智代, 中根直子: 特集 自由な分娩体位 寝ないお産の達人になるフリースタイル出産ワークショップ さあ,動いて,技を伝え合おう!! 誌上「フリースタイル出産ワークショップ」ほか.助産婦雑誌,50(8):617−653,1996 .
6) 河合蘭,西井紀代子,井沢彩野,山本智美: 座談会 産院情報を作った私たち.助産婦雑誌,55(5):443−448,2001 .
7)World Health Organisation
APPROPRIATE TECHNOLOGY FOR BIRTH
Volume 326, Issue 8452, 24 August 1985, Pages 436–437