『にっぽんの助産婦の仕事』no.2
工藤チヨさん
東京都渋谷区で「産後ケアセンターひかり」を運営する工藤チヨさん(助産婦会渋谷地区会長)を訪ねた。工藤さんは80歳(99年取材当時)。国際助産婦デーに渋谷で行われるジモンのパレードにも1回目から元気な姿を見せていらっしゃる。また、NHKのドラマ『すずらん』では、ヒロインの分娩を介助する助産婦役で出演。臨場感あふれる出産シーンをリードし大好評だった。
文・三好菜穂子/写真・河合 蘭
●郷土の偉人、瓜生岩に憧れて助産婦に
うちの実家は福島の二本松藩の大きな農家で、母は小姑や姑もいて相当苦労してましたから、「娘は農家の嫁にやらない。職業婦人になったほうがいい」とよく言ってました。福島には日本のナイチンゲールといわれる瓜生岩(生涯を社会福祉と貧民救済事業に捧げた社会福祉の先駆者。1829〜1898)がいます。母がとても尊敬していて子どもの頃、よく話を聞かされました。その母の影響もあって、郡山助産婦看護婦学校産婆科に2年通い、昭和12年に資格を取りました。卒業のとき、「開業できるようにがんばれ」という校長先生の言葉がずっと胸にあって、とにかく開業しようと努力しました。
どうしても東京に行きたかったから、池袋の原助産院に2年間の約束で助手として開業術を学びました。とにかくその先生のところは、客層が上流階級の方ばかりで、学習院の方とか、講談社の重役さんとかね。雑司が谷の公爵の家では、難産になったときに備えてお医者さんが横に座って待っていたほどですよ。東京でも電話が珍しい時代に、先生のところにはもう電話があってね、お産になるとかかってくるの。車持っている家なんて何軒もない時代だったから、通りに出てタクシーを拾うんですよ。先生の鞄持ちで夜、池袋を歩いていると「処女林」ってカフェーがあって、女給さんの看板に酔っ払いが抱き着いている。それを見て『これが東京かぁ』と思いました。とにかく田舎から出てきたばかりの20歳そこそこの娘ですからね。阿部定の事件があったのもその頃で、「ただいま逃走中です」なんてラジオで聞いたのを覚えています。
●「当直屋」さんと呼ばれた病院時代
助手といったって、昔はいちいち技術を教えてくれないから、みんな見て覚えました。診察の仕方、おぶ湯つかわせ(沐浴)、臍の切り方、胎盤の娩出も覚えた。でもね、嘱託医についてくる看護婦のような医療行為も勉強しないと、福島では開業できないと思いました。あのころの助産婦は、蛋白も調べなければ、血圧も計りませんでしたからね。そこで、都内でもお産が多い浅草の浅草寺病院に入ったんです。エノケンやロッパで浅草が賑わっていた時代だったけど、どこにも遊びに行かずに仕事ばかりで「当直屋」さんって言われたくらい。看護婦の資格も取りました。
2年半働いた後、産科医長について、私も埼玉県熊谷市の藤間病院に連れていってもらいました。ところが、行ってすぐ大東亜戦争が始まり、先生も含めて5人いっぺんに赤紙が来たの。私もそろそろ開業したかったから、昭和18年に疎開という名目で福島に帰郷。ちょうど、保健婦制度ができたころで保健婦の資格も取り、お産以外にも、結核患者の訪問や集団検診に毎日奔走。とにかく戦中は忙しかったですね。
●渋谷で開業
福島で終戦を迎えて、昭和21年に渋谷に住んでた叔父を訪ねて上京したの。一面焼け野原でね、新宿駅も富士山もすべて見渡せた。「このへんでも空襲でずいぶん人が亡くなって、ピチーッ、ピチーッて皮が弾ける音が聞こえたんです」と叔父が言うの。それを聞いて、『開業するなら命の尊さがわかるここしかない!』と感じ、すぐに土地を買って家を建てました。
それからずっとここ(渋谷区本町)で50年あまり。あちこちにとりあげた人たちがいて、もうすっかり原住民ですよ。今でこそ、都庁にも近い場所だけど、当時は「渋谷のシベリア」と言われたほど辺鄙な場所でした。戦後、GHQの指導でずいぶん再講習も受けました。オリーブ油で体を拭くオイルバスもやったけど、湿疹が増えてしまってね。日本特有の風土や赤ちゃんの体質を無視して、欧米のやり方をそのまま持ってくるのは考えものでした。昭和27年に、書を専門にしていた主人と結婚。娘が生まれた昭和30年頃が一番お産が多くて、多いときで1日4件、沐浴7件ということもあった。だから、娘は主人が育てたようなものです。
受胎調節指導員の資格もいち早く取って、各家庭を訪問指導して歩いたものです。区民館でぺッサリーのつけ方を幻灯機で見せたりね。ところが、先輩助産婦からは「なんで自分の首を絞めるようなことをするのか」と、ずいぶん言われました。「これは必要なことなんです」って食い下がりましたけどね。あのころ、人口妊娠中絶が本当に多かったんですよ。8年前、カナダのICMで「これからはお産だけの時代ではない。ケアーの時代である」というある国の方の発表に私も深く同感し、さっそく帰国後、自宅で仲間と「産後ケアセンター」を始めました。お産もぼちぼち来ますねぇ。やはり、助産婦も時代の流れ、社会情勢は無視できないですよ。私ももう少し若かったらと思うことがよくあります。だから、若い助産婦さんたちには、ぜひがんばってもらいたい。これが私の一番の願いですね。
◆工藤さんがなさっている産後ケアセンターの連絡先です。
産後ケアセンター(ひかり)
東京都渋谷区本町4-38-4 п@03-3377-4006
◆取材は、マーティーまりこさんにご協力いただきました。臨月のお体で取材に同行していただいたまりこさんは、その後無事に元気な赤ちゃんを出産。おめでとうございました。
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