『にっぽんの助産婦の仕事』no.1
きくちさかえ
九州、沖縄 98年3月
九州 今回の旅は、長崎から始まった。長崎から列車に乗って、鹿児島まで南下し、フェ
リーに乗って与論島経由で、沖縄に渡った。その間、各地で6人の助産婦さんに話を 聞くことができた。みな戦前に助産婦の資格をとり、戦中、戦後に開業助産婦として活躍した人たちだ。
長崎では野村スミさん(大正6年生)、山田ヨツさん(大正3年生)にお会いする ことができた。野村さんは、長崎原爆をひとつ山を越えた向こうの町で体験した。戦争中、造船所
のある長崎は毎日のように爆撃機が飛んできては、爆弾を落としていった。空襲警報 がが鳴ると、家の中で電気を消し、真っ暗の押し入れの中でお産をしたこともあった
という。長崎市内は、原爆で焼け野原になり、国内でもとくに復興にかなりの時間が かかった。「戦後何年も食料難が続き、物資もなく、ボロ布を集めてお産した」と野
村さんは振り返る。
山田ヨツさんは戦争中、朝鮮にいた。「助産婦として働いてはいませんでしたが、
あるときどこかから聞きつけてきたんでしょう、朝鮮の方のお産に呼ばれたことがあ りました」。当時、朝鮮の女性たちはほとんどが自力で出産し、難産になったときに
だけ助産婦を呼んだ。初めて会う産婦。駆けつけたときにはすでに赤ちゃんの心音は なかった。今でもそのときの産婦が心に残っているという。
鹿児島県阿久根市。牛ノ浜アヤさん(大正8年生)。このあたりは、戦争の被害は あまりなかった。けれど、山間地のお産の介助に出かけるのは大変なことだった。「
その当時は、今のように道も舗装されていず、車もありませんでした。街灯のない山 道を何時間も歩いたものです。山の中で炭焼きをして生活していた家族のお産に呼ば
れたこともあります。2里ほどありましたか。お産が終わって、山を降りると途中で どっぷりと日が暮れてしまって。心細くて、自分の住む集落の灯りを見たときには、
涙の出る思いでした。」
私自身、あやさんの仕事をなぞるような気持ちで、炭焼き小屋があったという地区に向かって車を走らせた。けれど、車で行けるのは半分ほど。あとは登山道のように
道は山へ吸い込まれていくのだった。ここを彼女はランプをもって、歩いたのだった。
鹿児島では、与論島で開業していた川畑千里さん(大正2年生)にもお会いした。 戦後、沖縄がアメリカに占領されていた期間、与論島は日本最南端の島だった。現在
、離島与論島には助産婦はもちろん産婦人科医もいない。島の女性たちはみな、沖縄 か鹿児島に出産するために島を出る。与論島では、川畑さんを含め数人の助産婦が、
島で最初で最後の開業助産婦だ。戦前、助産婦たちが開業する前は、とりあげ婆さん の時代だったし、戦後になってもつい30年ほど前まで自力で出産する女性も多かっ
たという。
その与論島へはフェリーで渡り、私はビーチサイドでひとりキャンプをした。おそ ろしく海はきれいで、夜はもののけが潜んでいるのではないかと感じられるほどジャ
ングルの闇は深かった。
沖縄 沖縄。宮城幸さん(大正9年生)、山原(やんばる)東村で開業していた。助産婦
も少ないこの地域では、広い範囲からお産に呼ばれた。「呼ばれればどこへでも歩い ていきました。片手にハブ退治の棒を持って、片手にお産用具を抱えて、山の中を飛
ぶような早足で歩いていきました」
我謝光子さん(明治44年生)。与那原で開業していた我謝さんは、沖縄戦の最中
、北部へ疎開する妊婦たちのお産を介助すべく、本島の北、山原へ移る。山原は今で もジャングルが続く山岳地帯。戦中には、アメリカ兵もジャングルに分け入り、日本
兵との戦闘がくり広げられていた。我謝さんは山奥にお産に行った帰り、道に日本兵 が横たわっているのを見る。「死んでいました。私は合掌してその死体をまたいで通
った」。彼女は、防空壕代わりに使っていた、沖縄の大きな古墳状の墓の中で、先祖 のお骨を脇に見ながらいくつものお産をとっている。
彼女たちに共通しているのは、少女の頃、町や村で成績のいい娘だったこと。みな
快活で、当時女性としてめずらしく「手に職をもつ」というアクティブな大志を抱き 、都会に勉強に出ていったことだ。それぞれの学生時代を送ったのち、困難な時代に
突入していく。戦争。彼女たちの話に戦争は切っても切れない。戦争を知らない世代 にとって、戦争は過去の産物、不幸な日本の過去でしかないけれど、彼女たち(むろ
ん助産婦だけでなく、戦争を経験したすべての人々)にとっては、忘れることのでき ない、大きな体験だった。そんな話を私たちは、聞かずにきてしまったような気がする。
「今では考えられないほどの苦労と重労働だった」と、彼女たちは口を揃える。しか し、彼女たちにはそれを乗り越えるエネルギーがあった。今、平和な時代。そんな時
代に生きる私たちに、彼女たちにような生命エネルギーがどれだけあるだろうか。
(今回の取材は長崎Cキューブのみなさん、牛ノ浜幸代さん、島元由可さん、鹿児島 愛育病院のスタッフの方々、知念菜穂子さん、小森香織さんにご協力いただきました
。心からありがとう) |