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インタビュー集

 

中川志郎さん

 

 小学校時代に飼育当番をした時、「うさぎに子どもが生まれているよ!」という声を聞いて小屋に駆けつけたら、子うさぎはどこにもいない。よく探したら,すのこの下に、子どもであったと思われる肉のかたまりが見つかった。
親子の本質には、何かとても本能的な、むき出しの野生が息づいている。しかし現在の子育て論には、本能としてこれをとらえる視点が脱落している気がしてならない。そんな状況の中で、「動物はこんなに子どもをかわいがる」を一気に読み(現在は絶版)、実に胸のすくような思いがした。中川志郎さんは上野動物園園長などを歴任された日本の動物園のリーダーであり、貴重な野生動物の繁殖にも関わってこられた。

インタビュー・文/ 河合 蘭


● 出産の条件は遺伝子に沈着している


河合 中川さんは生家が畜産農家でいらして、子どもの頃からうさぎを増やすのがお上手だったとか。動物の、人間も動物ですが、そのお産や子育てがうまくいく条件というのは、何でしょうか。


中川 
それは、「その動物が成立した過程で必要とされた条件がみたされないと、母親は安心して子どもを産めない」ということです。どういうことかというと、動物というのはすべて、ひとつの種が成立するまでにものすごく長い時間がかかっていますね。人間が動物を家畜化してから1万から1万5千年かかっていますが、その種が成立するためには何百万年、何千万年という時間がかかっている。人間も、ゴリラやチンパンジーと別れてから1万年経ったからといって、その性質が根本的に変わってしまうということは考えられないですよ。その成立過程で、親から子へ、孫へ、と20代、30代と数え切れないほど代を重ねて細胞の中に沈着していくわけですからね。
 だから、家畜化したうさぎも、動物の性質が変わってしまったと思うのは人間の錯覚であって、家畜になる前の元のところがわからないと、よく理解できない。私たちがよく見るあの白うさぎはね、元は地中海あたりにいた穴うさぎだったんです。一日の大半を穴の中で暮らしているのが、彼らの正常な姿なんです。だから、ケージの中で飼うのは、本来とは違った環境の中で飼っているわけですが、それでも普通の時は、大人のうさぎは耐えられるわけです。ところが、赤ちゃんを産むとか、おっぱいを飲ませるとか、そういうとてもプリミティブなことをするときには、血が騒いで、本能にかなった条件を要求するのです。

● 誰の都合を優先するか


河合 そういう時に本能が騒ぐのは、何故なんでしょうか。


中川 子どもを生む、育てるということは、自分が全く無防備になってしまうということなんです。そうなると、うさぎは何百万年も「穴の中しか安全な場所はないよ」という情報を受け継いできたので、そのようなところにいたい、と強く思うわけです。ところがケージのなかのうさぎは全く違った条件で生まなければならないから、何回やっても子どもが死んでしまうとか、親が食べてしまうとか、そういう悲劇的なことが起こってくる。そして、あのうさぎは悪いうさぎだ、たちがよくない、と言って片づけられがちなんだけれど、本当は、うさぎが持っている地下生活者としての本能を全く無視した結果なんですよ。


河合 では、中川さんはどんな風になさったのですか。


中川 
あのころ、うさぎはみんな、リンゴ箱で作った小屋で飼いました。前面に金網を張りましてね。それで僕が子どもの時にやったのは、今言ったような理屈は知らなかったけれど、小屋の中を半分に仕切って、赤ちゃんを産む暗い部屋を作ったんです。前面にもカーテンをつって四方がふさがれた空間を作った。そうして、彼らが、かつて、最も安全でなければならないときに求めた環境に近いものが現出したわけです。だから彼らは安心して子どもを生んだのです。


河合 他の人たちはそうしなかったのに、なぜ、中川さんはそうしたのですか。


中川 それは、うさぎを見ると、子どもを隠そう、隠そうとしていたから。それなら人間が隠してやろう、という単純な発想なんですけれど。ところが、家畜を飼う人たちは、普通はそう考えないんですよ。何故かっていうとね、それは「人間のために飼われている動物だ」って頭から思ってしまうから。動物の都合は考えないわけですね。でも、生きているものにはすべてそのものの都合があって生きているわけです。カブト虫にはカブト虫の都合があって生きているし、ゴキブリにはゴキブリの都合があって生きている。人間のお産も、妊婦の都合とか、赤ちゃんの都合とかが前提とされるべきなんだけれど、多くの場合はメーカーの都合とか、医療者が仕事をやりやすいとか、そういうことの方がどんどん前の方に押し出されていっちゃう。母親や子どもの都合より、一般人たちが、人間の文化生活みたいなものをキープすることの方が大事なんですね。


河合 しかも人間は、時として妊婦自身も文化生活のキープに加わってしまいます。


中川 そうですね、人間というものは。今、子育て支援と言われているものも、多くは母親と、母親をターゲットにした企業への支援ではないでしょうか。赤ちゃんにとって何が一番ハッピーかという発想ではありません。


● 「文化」はいつでもやめられる


河合 それから不思議なのは、人間の母親は、コインロッカーに捨てるような事件はありますけれど、ほとんどの場合、本能を阻害するような条件があっても、きちっと子育てをしますね。教育で補われているから、と言われますが、それはどういう意味なのでしょうか。


中川 人間の場合、すべての行動は、もって生まれた本能的な部分と、人間が創設した文化のコンビネーションで成り立っています。だから、ある結果があるとき、それは本能によるものなのか、文化によるものなのか、よくわからない。そこで、文化を持たない動物たちを見ると、それが本能的な行動なのか、本能を満たす条件は損じたけれど文化が補ったものなのかがわかります。


河合 では本能による行動と、文化が補正した行動とは、どこが違うのでしょうか。


中川 それは、文化というものは本能ではないから、やめようと思えばいつでもやめられるのです。そこが決定的に違うところですね。

●奇妙な犬たち


中川 最近、犬で非常に大きな問題になっているのは、「α症候」と呼ばれるものです。αとは、一番上という意味で、つまり、犬が、自分が家庭の中で一番上だと思ってしまう現象です。
私たち哺乳類はほとんどが群集団で生活していますね。群の中心にある者――日本猿だったら母系集団ですから雌、狼だったら雄ですが、あるひとつの大きなファミリーがあったら、それに属する者はみな自分の持ち分や役割があって、それがちゃんと決まっている時、その群は平和なんですね。
 ところが最近の犬は、社会化ができる以前の一番可愛いときに売るから、わずかしか母親と暮らさない。そこから犬社会と隔絶してしまうから、公園に行っても他の犬を見ると逃げ帰ったり、逆にけんかをふっかけたりします。犬づきあいをやってこなかったから自分の位置がわからない。その上、人間が子犬のうちはかわいがって何でもしてくれますから、自分が一番上だと刷り込まれているんです。しかし、ある時、その状況がキープできないような事態が起きる。たとえば、家に赤ちゃんが生まれてみんなの関心がそっちへ移るとか。そうすると赤ちゃんに乗ったり、ひどいときには噛んでしまう。飼い主にして見れば、あんなにかわいがってやったのに、噛んだ、と思うでしょうが、実は、彼らの、群の中で生活するという習性をまったく無視した結果なんです。

●親子は平等?


河合 人間の子どもでも、最近は家庭という群の上下関係が希薄ですから、平等に扱われる子が増えているように思います。友達感覚の親子というか。

中川 平等ということはもちろん大切で、職業に貴賤がないとか、そういう平等は大いにあるべきですが、親と子、先生と生徒、大人と子ども、そういった保護する者とされる者が対等ということはありえないですよ。平等であるということは、自分が保護者の位置から下がる、ということですね。でも子どもは、母親は絶対的な力を持っていると思い、そのもとで庇護されているという安心感があるからこそ、外へ出て行って探検ができるのです。ところが、同価値でいたい、と保護者が遊び相手の位置に下がってしまったら、子どもは安心できません。いつまでもお母さんにべたべたして離れない、ということになります。そういうことをしていると社会化もないわけです。

河合 子どもの社会化とは、ひとことで言うと、どういうことですか。

中川 自分が群の中でどういう位置にいて、どういう役割を果たすのかわかる、ということです。それが、大きくなって他の犬や人間と生活していくときの基礎になります。これは、ごく小さいときに決まるんですね。犬だったら、生後3ヶ月のころですよ。

●飼育係は、人間が育てた動物には背を見せない


河合 動物たちは、子ども時代に問題があると、おとなになって、かなりの確率で問題を起こしますか。


中川 それはもう、彼らは人間のように文化によって修正する、ということはできませんから。もろに、そのままストレートに出てきます。


河合 赤ちゃんの時に親から離れて、飼育係が育てた人工哺育の動物はどうですか。大人になった時、何か特有の問題がありますか。


中川 今は、肉体的にはパーフェクトに育ちます。誰が見ても、通常のトラやライオンですね。ただ、肉体としてのトラは育つけれど、トラの中にある、トラとしての行動を学習する機会を逸しますと、ある能力が眠ったままになってしまう。それは親や他の子どもとの接触の中で触発され、開発され、発達していく能力ですね。そうすると、その眠った能力が突然本能的に呼び覚まされたとき、ソフトにランディングするクッションのようなものが行動の中に出てこない。反射的に噛むとか、突っ込むとか、そういうことが多い。攻撃欲の抑制みたいなものが、まったく働かないのです。だから動物園の飼育係たちは、人工哺育の動物こそ気をつけなければならない、と言いますね。

河合 人工哺育なら、係の人はその分たくさん手をかけたはずなのに、逆に襲われる危険性が高いのですね。


中川 
社会化というものができていない状態でおとなになってしまうからです。そうすると、本能として持っている反射行動だけが、強烈に出てきてしまうのです。それは、本来なら、親や仲間の中で学習されてコントロールできるようになるのですが、それを学習する機会がないから、本能だけが一気に開花してしまう。
 社会化というのはそういうことでしてね、言い換えれば「攻撃欲のコントロールを学ぶ」ということです。野生動物は、乳離れしたら、好むと好まざるに関わらず、戦争して自分の身を守らなければならない。だけどその時には、攻撃していいものといけないものを分けなければならない。そしてこれは攻撃していいものだ!とわかれば、精一杯の体力を使って攻撃する、しかし相手が逃げれば深追いはしない、これがひとつのコントロールですね。そして仲間うちの場合は、攻撃してはいけないので、あくまでもプレイでなければならない。こうした攻撃の段階分けが、親子のきずなや仲間、兄弟との社会化現象の中で学習されていくのです。

●文化は何のため?


河合 仲間を覚えることの最初が、親を覚えることですか。

中川 そうです。最初に接触するのは、どうしても親です。さらに、親とは何であるかというと、子どもの体温というものはものすごく変動しがちなので、その状態を守るものは、動物では親が抱く、なめる、一緒に巣の中にはいる、そういうことしか体温を保持する方法がないんですよ。そうすると、否応なしに親子は密着する。その密着の中で、親といればあったかい、という信頼感が結果として調整されて行くんです。人間の場合は、親子のきずなを結ぶためにキャッチボールをしよう、なんて言うわけですが、そうじゃないですね。親子は一緒にいるものだから、結果としてきずなが生まれるんです。
人間の場合は動物とは違う、とよく言われますけれど、文化を持っているにせよ、人間もつい一万年前まで猿だったわけで、そこのところをおさえた文化であってほしいですよ。文化というものは、動物としての人間を補強するためにあるべきなので、それを阻害するものであってはならないと思います。

このインタビューはREBORN16号、17号に掲載されたものです。