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長野からのメッセージ(2)
私が考える「安心して産める」という意味
――高度医療に支えられた出産・育児を体験した立場から
by 亀井智泉(安曇野のいいお産を作る母の会代表)

陽だまりの病室で長野からのメッセージ2回目です。このメッセージを書いて下さった亀井さんは、長野の最先端医療を担うこども病院の中でお子さんを育てました。そこで亀井さんが経験したのは、命の厳しさを共に受けとめ立ち向かってくれた医師たちの心でした。本当に「安心できる出産」とは?みんなが大病院で産めば、それで女性たちは安心できるというのでしょうか?(河合)

プロフィール
亀井智泉(かめい・ちせん)
周産期のトラブルから脳死状態になった長女の記録 『陽だまりの病室で〜植物状態を生きた陽菜の記録』の著者。現在も長野県立こども病院にボランティアに通う。家族看護、チーム医療について勉強中。

■医師のパターナリズムに甘えてきた私たち

 お産は人間に残された最後の自然だと思います。私たちはそれを忘れてこれまで医療に苦しみを取り除くことばかりを求めてきました。そしていつのまにか、医師がいなくてはお産ができないようになってしまっています。それが医師への過重負担を生み、医師を疲れさせてしまったのではないでしょうか。医師不足の原因には、主体性のないお産をしてきた私たち母親にも責任の一端があると自覚しなければならないと思います。同時に、私たちはこれ以上お医者さんたちのやさしいパターナリズムに甘えてはいけない、ということにも気づき始めています。
 いのちを産む苦しみは必要なもので、逃げようとしてはいけない。乗り越えなくてはいけない苦しみなのです。私たち母親には産む力が、子供たちには生まれてくる力が本来備わっています。私たち母親が、お産が自然なものだということを取り戻し、産む力を呼び覚まして発揮することで、医療さえあれば助かるんだ、という医療への甘えを捨てたお産ができるのではないでしょうか。
 日本には幸い、伝統の技術と誇りを持つ助産師がいます。妊娠中のとつきとおかを見守り、自然なお産を助け、産後も親子が、家族が、新たに豊かな関係を築くためのトータルな支援を、助産師さんならできる、と期待しています。妊娠・出産に対する不安を取り除いてくれて、出産後も親子が我が家で仲良く新たな暮らしを築き上げるまで支える、ドゥーラとしての役割を、助産師さんに期待することはできないでしょうか。

■医療の助けが必要な人には、医療も心の支えもたくさん必要

 もちろん、その一方で、何らかのリスクを抱えて医療の力を借りなければならない人もいます。その人たちにこそ、最高の医療技術と手厚いケアを注いでほしいと思います。限られた医療資源ならばなおのこと、それを無駄遣いしないように、自然なお産をできる人にはその力を最大限に活かしてもらう。そして医療の力を必要とする人のためにこそ医療の心と力を集中して注ぐシステムをつくっていただきたいのです。
 医療の介入そのものは否定されるものではありません。
 お産の自然を大切にするあまり、高度医療を担う人たちの心にある、命への祈りを忘れてはなりません。自分のやりたいように産めた、気持ちのいいお産だった、それだけが「いいお産」ではないでしょう。たとえ、帝王切開や陣痛促進剤を使った、医療技術によるお産になったとしても、体力の限り痛みに耐え、心を尽くしてわが子の為に祈ったのなら、それはその母と子にとっていちばん「いいお産」なのです。自然なお産のみを礼賛する波の中で、医療の介入無しには産めなかったお母さんたちが、自分のお産を否定されたような苦さを感じていることにも、思いをいたさねばならないと思います。
 しかし、医療の介入が必要なお産では、時として、お母さんの「産むのは私だ」という誇りや、へその緒でつながる母と子の一体感ゆえのわが子への感性や本能が無視され、傷つけられることがあります。そんなお産での心の傷が痛むあまり、わが子への愛情に浸りきれないお母さんも多いのです。それは、赤ちゃんが元気な場合はもちろん、母子の愛着形成がことさらに強く求められる、障害や病気を持つ赤ちゃんを育てる上で、とても大きな壁になります。わが子はかわいい、がんばりやさんだ、と自慢したい、でも、子の子を産んだときの子とを思い出すと辛くて、産んでよかったとは思えない。―――そんな悲しいお母さんの声をこれまでいくつも聞いてきました。

■すべての赤ちゃんに「おめでとう」と言ってくれる産科医療を

 10年前に普通分娩にて生まれた私の長女は周産期の事故で脳死の状態になりました。搬送先のこども病院で長女は育ち、4年あまり生きてくれました。長女は私たちを親として、家族として育ててくれました。とても幸せでした。どんなに重い障害をある子を授かっても、苦しみと悲しみを自分たちの力で乗り越えることを支える人がいてくれれば、強く幸せな家族になれるのです。私は脳死の子でも、長女を産んでよかった、育ててよかった、と大きな声ではっきりと言えます。
 周産期のトラブルで悲しいのは、障害児が生まれたことではないのです。誰も支えてくれないことなのです。一緒に歩いてくれる人がいないこと、それが悲しいのです。
 周産期に必要なのは「なにかおきたら大変だ」と先手を打って管理する逃げの医療制度ではなく、「何が起きても大丈夫だよ」と腕を広げてくれて、「一緒にがんばろう」と立ち向かってくれる制度でしょう。赤ちゃんが障害や病気を持って生まれることを「あってはならないこと」と否定したり、避けたりしてほしくないのです。

 生まれてくるすべての赤ちゃんに「おめでとう」を。たとえ病気や障害があっても、命の存在という大きなことの前には些細なことに過ぎません。子どもたちみんなに、大丈夫だよ、幸せな家族になれるよ、と味方になり、家族を支えてくれる社会。病気や障害があってもお家に帰って家族の中で、地域の中で育っていける、そんなシステムを作りませんか。どんなお産をしても、「この子を産んでよかった」と思えるように。それが私たちの望む「安心して産める」社会だと思っています。

2006年5月 記


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