粉ミルク販売戦略に関する主なできごと |
|
1939年
|
シンガポールで小児栄養のパイオニアであるシスリー・ウィリアムスが『ミルクと殺人』というスピーチをする。 |
1973年
|
雑誌『ニュー・インターナショナル』に特集記事「乳児用食品の悲劇」。国連のたんぱく質、カロリー助言グループが病院での販売促進は不適切と述べる。 |
1974年
|
「欠乏への闘い」という組織が、第三世界における乳児の栄養失調と人工乳の販売促進についてのレポート『赤ちゃん殺し』を発行。これをスイスで「第三世界活動グループ」という組織が翻訳。ネスレが同組織を名誉毀損で起訴。 |
1975年
|
各国の乳業会社が参加して国際乳児用食品協議会が結成され、自主的な販売倫理基準を作成。日本の会社もそろって参加。/ブリストル・マイヤーズ(医薬品・乳児用ミルクの会社)訴えられる。 |
1977年
|
パプア・ニューギニアでほ乳瓶と人口乳首の広告が禁止される。/米国でネスレボイコットが始まる。 |
1978年
|
ボイコットがカナダ、ニュージーランド、オーストラリアに広がる。/ブリストル・マイヤーズは和解し、今後は企業派遣の栄養士を使わないことに同意。/エドワード・ケネディ上院議員による公聴会開催。 |
1979年
|
WHOとユニセフが国際会議開催。/IBFAN結成。 |
1981年
|
母乳代用品の販売流通に関する国際規準(通称・WHOコード)採択。賛成118、反対1、棄権3で、日本は棄権。 |
1984年
|
ネスレがWHOコードの実行に同意。最初のネスレボイコットが終結。 |
1986年
|
世界保健総会が無料または割引での試供品提供を禁止する決議を議決。 |
1988年
|
世界中のIBFANグループの監視によると、WHOコードや世界保健会議の決議は守られていないことが判明/2回目のネスレボイコット |
1990年
|
イノチェンティ宣言 |
1991年
|
赤ちゃんに優しい病院(BFH)運動が世界中で開始される。 |
2001年
|
WHOコード誕生から20年。この時点で、WHOコードの内容すべてを含む国内法を持つ国は24カ国、多くを含む国内法を持つのは31カ国。30カ国が審議中。世界全体の人口乳市場は推定1090万米ドル(約13億円)。 |
2003年
現在 |
WHOコードの内容を全体的に法制化した国内法を持つ国は26カ国、多くを法制化した国は32カ国。 |
「アジアの母乳育児支援ネットワーク」連続講座配付資料「お母さんと赤ちゃんのための63年間」(IBFAN作成"History of Campaign"の邦訳)より一部を抜粋・加筆したものです。 ●原文はIBFANホームページで読めます(英語)。
|