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守られたベビーフレンドリーホスピタル
上田市産院の閉院危機から存続決定まで
構成/河合 蘭

 全国で、産科医不足による産科のとりやめ・施設統合が進む中、長野県上田市にあるベビーフレンドリーホスピタル認定施設・上田市産院でひとつのドラマがありました。
  ここで出産した人たちが、閉院の危機に追い込まれた産院を再び取り戻したのです。存続を決定するまでに、上田市の女性や出産関係者たちが語り、聞いて、考えてきたことは、まさに、今全国が迎えている「産み場所の危機」そのものでした。5ヶ月に及んだ存続運動の一部始終を、どうぞ、じっくりとお読み下さい。


写真:上田市産院存続運動の一部始終は信濃毎日新聞で報道され、市民が状況をよく知ることができた。

わたしたちの上田市産院存続活動

文・小滝良子(『いいお産』を望み産院存続を求める母の会)
産み育てる悦びのモデル――上田市産院
文・写真 河合 蘭
わたしたちの上田市産院存続活動
文・小滝良子(『いいお産』を望み産院存続を求める母の会)

■不安な仲間たち

 昨年10月末、全く唐突に、私が8ヶ月前に出産したばかりの上田市産院が、信州大学が医師派遣を打ち切るために廃止の危機であるという報道がされました。
  県内で唯一のBFHであり、昭和20年代からの歴史があり、市近郊の2000人の新生児のうち4分の一がここで生まれていて、しかも母親たちに年々利用者が増え続けているこの産院に、こんなに簡単に廃止論が出るのか。わけがわかりません。
  何故? 赤字だったの? 大学が派遣を打ち切るってどういうこと? 助産師さんたちはどうなるの?・・・・・・たくさんの疑問と、震え出すような異様な不安をからだで感じました。11月9日に、存続を求め、産院で産んだ母たちの会があると知り、同じ気持ちの仲間がいることにまずは安堵し、とにかく出かけました。
  公民館のような会場に子連れで100人近くの母親が集まる中、『いいお産を望み 上田市産院の存続を求める母の会』が発足することを知りました。会のメンバーは、自分たちも小さな子どもを連れながら、会の趣旨説明、賛同議員の紹介などをたどたどしくもてきぱきと進めていました。説明の後、「存続を求め、母の会では署名活動をし、まず市民のみなさんに、私たちにとって産院がどれほどかけがえのないものかを知ってもらおうと思うんです」とのこと。私たちにできることはそれか、それしかないのか。署名を集めてもそれでどうなるの? 不安がいっぱいでした。

■「私と同じだ」

 やがて、「みなさんの産院への思いを、ここにおられる議員さんやマスコミに向けて話してください」と呼びかけがあり、今日のメインがこれなんだなと分かった反面、この大人数を前に、自分の子どもを追いかけつつ、授乳しつつでちゃんと話が聞けているかもわからない状態の母たちが、この上立って発言するだろうか?とたちまち心配になりました。しかし、私の胸の内に反して発言の手はぽつりぽつりと上がり続け、母親たちの産院への思いの吐露は、途切れることがなかったのです。それは感動的な光景でした。
  「前の出産では説明のない促進剤使用で苦しんだ。母乳の指導も一切なかった。産院では提出したバースプランをスタッフがしっかり把握してくれ、時間はかかったが納得して促進剤を使用しないお産が出来た。母乳をあげる姿勢まで指導してもらい、ここなら次の子が欲しいと思えたのに」「出身地の都会での、だーっと並べられての内診にショックを受けた。産院ではやっと人間扱いされ、絶対ここでと思い親の反対を押し切って出産した」などなど、子どもを抱いて、緊張に声を震わせながら、感情を昂ぶらせ涙しながらの話が続きました。私と同じだ、という思いがいくつも話されていったのです。
  始めのうち、何故ここにいるんだろうという顔をしていた議員たちの顔が変わっていきました。勤務の間を縫って会場に来ていた産院のスタッフも泣いていました。不安がいっぱいだけど、絶対に産院をなくすわけにいかないんだという気持ちを共有したその日から、私も母の会として活動のお手伝いをさせてもらうことにしました。

■お産への大きな「無理解」「無関心」

 まずは19日の「市長と話す日」に向けた準備、そして署名集め。「市長と話す日」は毎月あり、市民がハガキで応募して枠をもらいます。「眠っている間にも産院がなくなるかと怖くて、涙が止まらない」と話してくれた母がいましたが、日常生活の中で常に、みんながそんな本能的とも言える不安感に動かされていました。また、初めの混乱が去ってみると、こんなに簡単に廃院論が出る背景にある『お産』というものへの大きな無理解・無関心を感じ、まずはお産ってどこの病院でしても同じわけではないんだ、ということから話さなくては・・・お産の体験のない男性たちに、私たちの嬉しかったこと辛かったことをどう話せば伝わるのか・・・と考えはじめました。『お産』への無理解・無関心は市だけでなく、世間全体のものだ、とあらためて実感したのもこのときです。これから闘おうとするものの大きさを感じました。
  しかし私たちはほんの数日の署名活動を通し市民の並々ならぬ関心と存続への願いを実感していていました。「私も産院で産んだのよ」「俺は産院で産まれたんだ」ずいぶん年配の方からも声をかけられました。市民の気持ちを市はどうするのだろう・・・市は敵ではないんだ、攻撃的に話すのはやめよう、冷静に伝えよう、と言い合いながら、当日を迎えました。

■上田市長と会った日

結局父母と子どもたち総勢60人余りが市役所の講堂へ。それぞれがかなり個人的な経験を話すのを、市長は熱心に聴いておられました。産院への感謝と廃止の不安からみな声がつまり、参加した父親から「母親たちがみな感情的になるのは、産院が感情的にさせるような貴重な病院であることのあらわれです」とフォローがあったほどです。その必死さがどの程度届いているのか、産院は単にお産のケアだけでなく、医療者の接し方次第でその後の育児にまで続く支援になるんだということがどれほど伝わったか、不安でした。私は、どうしたら男性の市長に伝わるか?を考えた末、終末ケアのことを例にとってみました。死を迎える人への医療は、ほんの20年前には医療の一分野ではなかった。しかしその大切さ、医療者でなくてはできない心へのケアが見直され、今は立派に研究と実践がなされ、誰からも認識されている。育児のスタート地点であるという観点からのお産のケアも、まだ形のないもので、見えにくいものだが、産院ではそういう意識をもって実践が行われ、母親たちは大きな支えを得て育児へ移っていく。産む人の主体性を重んじてもらうこと―――産み方を選べること一つが母としての自信になる。どうかそれを大事なものだと思って欲しい、市の財産としてなくさないで欲しい。
  熱心にメモをとりながら話を聞き終え、市長は「みなさんの気持ちはよくわかり、活動に敬意を表する。産院の大切さはわかった。様々な問題に対し市の考えを用意して信大と話していく。これからはみなさんと一体になり動きたい。」と話されました。
写真:上田市へ署名を提出する母の会のメンバー。

■市の記録を塗り変える署名数

  署名はぞくぞくと集ってきていました。私自身は上田に知り合いがなく、でもじっとしていられない思いで、子どもをしょって週末のスーパーに立ったり、住むマンションを1軒ずつ回ったりしました。知らないお宅のベルを鳴らしてまで、と、自分の行動に自分で驚く日々でした。(この からだの奥底から沸くような居てもたってもいられない気持ち、が自分でも不思議なのです。産み場所って女性にとって特別なものだってことでしょうか) 結局市長に初めに提出した11月29日には、8万近くが集まり、(上田市の人口は13万弱です)誰よりも私たち母の会が一番驚く結果となりました。母親たちが自分の職場などから集めたものが凄い数に昇ったうえに、全国の助産師さんたち、病院のスタッフからも届いていたのです。ちなみに、これは、私鉄廃止反対の、全戸に回る回覧板で集めた署名数を超えて、上田市の記録となりました。

■わがままなのだろうか?

 そのころ、人事権を握る信大の小西産婦人科教授の、「我々は高次医療への医師派遣を止めることはできない。救える命を見殺しにはできない。だから派遣を止める病院もでてくる」という発言をマスコミを通して聞いてもいました。産院は高次医療施設ではない、それでは公的病院の役割を果たしていないのでは?というのも派遣見送りの根拠です。(上田市にはもと国立病院・現独立行政法人の長野病院という大きな病院があり、産院とは歩いてもいける近さです、NICUもあるし、いざとなればそこに搬送すると思っていました)もちろん産院でも手術もしますし、個人病院ではよく話を聞かずに断られたが、持病がある自分の分娩を扱ってくれた、という声も多く聞いています。搬送率も年間ほんの数%です。産院のお産は安全ではない? それは私たちにはわからなかったことでした。 私たちはたまたま安産で、産む人の主体性を重んじてもらうお産を産院で実現できた。しかし今後は、ほかの地域や、高度な医療を必要とするお産の場から医師をもぎとってしかそんなお産は実現できないのだろうか? 私たちは自分さえよければいいと思い知事にお願いしにきたのだろうか? 思いだけで突っ走ってきた活動が大きな壁にぶちあたりました。
  何度も考え、話し合いました。しかし、考えれば考えるほど、高度な産科医療と産院でのお産、どちらかを選べというのはあまりに難しいばかりか、そもそも並べて選ぶような問題ではないように思えてきただけだったのです。
  「じゃあ、小西先生のおっしゃる高次医療の中のお産を見に行ってみようよ。それで考えてみたら?」元産院スタッフで今はフリーで活動中の助産師さんからアドバイスがありました。たしかに、私たちは市長や小西先生に一度産院を見に来てほしいと言いながら、先方のフィールドを知ろうとしてきませんでした。また、署名が予想をはるかに超える量集まり、県内のマスコミは連日報道してくれていますが、市の動きは見えてこず、なんら進展を見えない状況の中、次にどんな行動をしてよいか途方にくれてもいました。

■高次医療施設のお母さんと会う

 まずは助産師さんの紹介で長野市の「小さく生まれた赤ちゃんの親の会 クレッシェンド」のみなさんの定例会におじゃまできることになりました。お会いするにあたっては、ずいぶん緊張しました。私たちの活動に、思いがけず傷ついている方もいるかもしれない・・・しかし、その雪の日集まっていたお母さんたちは、私たちを明るく迎え入れ、ご自分の出産体験をわかりやすく話してくれました。
  お聞きした出産時の週数も子どもの体重も、これまでに聞いたことのない衝撃的な数字でした。また、上二人は大きめの赤ちゃんで安産で、原因もわからず3人目のこの子だけ早産だったの、というお母さんもいらして、誰にでも起こり得る事態だということも実感しました。自分は中毒症で入院、突然のお産となってしまったが、まだそれを受け入れられない、という若いお母さんから、「カンガルーケアってどういうものですか?それで親子の絆ができるのですか?」と質問されたときには、ぐっと詰まってしまいました。その後の育児に行き詰まったときも、お産直後胸に我が子を抱いたときの記憶が自分を支えてくれる、と話す母は母の会にも多いですが、その若いお母さんに、カンガルーケアをしなければ絆はできない、などとは言いたくない、と強く思いました。産院の良さは、カンガルーケア、母子同室、といったオプションがあることではない、母子のスタートを気持ちと体のケア両方で応援してくれる点なのだ、ということをわかりやすく伝えていかなければ、とあらためて身が引き締まる思いでした。
  そして質問が広がり、高次医療の中にもスタッフからのそういった母子支援があることを皆さんの体験の中からお聞きすることができました。例えば、帝王切開後のもうろうとした自分の耳に小さな赤ちゃんを近づけ産声を聞かせてくれた、すぐ挿管しなければならなかったが、一瞬待って顔を見せてくれた、自分の意識が遠のく前に「あ いま聞こえたのがあなたの赤ちゃんの声よ」と教えてくれた、などです。産んだ直後のそういった小さな心遣いを、母親たちはよく覚えていました。そういった小さなことが産んだ実感や母になった実感を作ってくれるんだと思いました。その状況にあった、カンガルーケアのようなものだと言えると思います。スタッフたちはその重大さをもちろん知っているんだなあと嬉しく思いました。私たちの高次医療へのイメージが少しずつ出来てきました。
  「私たちの子どもは高次医療がなければ助からなかった。でも、できるなら次は産院でのお産のように産んでみたい。両方が同じく大切だと思います」という言葉を頂いて会は終わりました。思いがけない大きな励ましをもらってしまいました。

■5つもNICUがあった県立子ども病院

  また、長野県では最高次の医療施設、県立こども病院の新生児科にも見学をさせていただけることになりました。5つもあるNICU、分娩室のすぐ隣は蘇生室だという事実が重かったです。お産直後に小児科の中でもさらに細かく分かれたそれぞれの専門医がチームを組んで赤ちゃんを救うこと、搬送や逆搬送のこと、などなど、施設の見学をしながら師長にお話を伺う、貴重な体験ができたのです。聞くわたしたちは皆お産の体験者でありながら、ほとんど初めて、お産には何が起こるかわからない、誰にとっても、高次の医療のバックアップは必要、ということをひしひしと実感しました。そして、今度ははっきりと、こういった高次医療施設と、産院と、やはり両方あってほしいんだ、という気持ちが固まってくるのを感じました。上田地域にも2次医療施設がある中で、産院があってもいいのではないか・・・全国での十分な医師数確保には長い年月がかかる、一息に長年かかって作り上げた産院を無くしてしまう以外の選択肢だってあるのではないか・・・

■市主催のシンポジウムで教授が講演

 こども病院の見学の直後、市主催の「地域医療を考える」シンポジウムがありました。小西教授が基調講演をされ、上田市の医師会などがパネリストとなっての会です。市からは母の会にもパネリストとして参加するよう要請されましたが、急に寒さが厳しくなり、私たちの子どもたちは軒並み風邪で倒れ出し、見学もパネラー参加も母の会内で交代が相次ぎ、存続は見えて来ず、とても苦しい時期でした。
  小西教授は、「できるだけ早く上田の皆さんにお話する機会がほしかった」と述べられ講演を始め上田市は他市への搬送率が高い、高次医療のバックアップなしではいいお産はありえない、という指摘をされました。2次医療施設は整っていると思っていた私たち市民には寝耳に水です。また、国の産科医不足の厳しい現状、その対策と話され結びとなりました。ずっとマスコミを通して注目してきた教授ですが、実際のお話ぶりからは産科救急救命ともいうべき分野への熱意を感じ、また、初めて「(医師不足から現在国が進めている)お産施設集約化は最善の策ではないことは承知している」という発言も聞け、信大の苦しい立場もよく理解できました。
  私たちは発表の最後に、妊婦さんのためにも一刻も早い産院の分娩予約開始を、と訴えましたが、年内には無理なのか、と気落ちしていた12月27日、突然、予約開始の報が入りました。では存続決定か? というと、(小児科併設など理想の形に整えるまでは)存続とはいえない、という回答で、あいまいな気持ちでのばたばたした年越しになりました。

■いいお産って何だろう?

 私たちはこども病院見学後、自分たちの知っていた産院でのお産に安全の確保の必要性という新たな観点が加わったこと、そもそも『いいお産』ってなんだろう? 私たちがこれほど産院でのお産に愛着をもったのには理由があるのだろうか? などなど活動を通して生まれたお産への疑問について知る機会が欲しく、また母の会の活動を途切れさせてはならないという一念で、1月15日に勉強会を企画しました。大葉ナナコ氏、河合蘭氏のほか、いいお産プロジェクト理事原氏、そしてこども病院から赤羽師長がいらしてくださいました。産院スタッフの多くが手伝ってくれました。
  会の最後、ある産科医が会場から発言されました。産む人のしたいお産と、産科医の習ってきたお産にはギャップがあること、それを埋めるために、地域、医療者の大きな連携がますます必要であること、だから母の会のみなさん、今日が終わりではなく始まりですよ・・・最後に、僕が今度産院に採用されました、と自己紹介されて、会場中がびっくりし、どよめきはやがて大きな拍手に代わりました。

写真:市民に長く親しまれてきた上田市産院。今は分娩予約が再開され、たくさんの家族が訪れている。

■ 95,671筆の署名活動を終えて

  1月24日、市が会見を開き、先の医師の正式採用と産院の存続を宣言しました。この医師は諏訪の人ですが信大の医局の所属。では始めの方針を信大が変えて、医師派遣を決めたかというと、「医師本人の意向を尊重した。信大としての派遣ではない」とのこと。上田市も、長野病院との連携を強めこれまで以上に緊急事態に対応できるように産院や市内の体制を整えることを約束し、それなら、ということでこうなったみたいです。また、近郊の市に住み週の半分は他県で勤務の60歳の医師も非常勤で産院に来るとのこと。これまで以上の充実となります。
  しかし、本当の存続までには、まだまだ長い時間がかかるのでしょう。市の2次医療施設のことなど、新たに見えてきた問題もあるのです。今は疲れ果てている私たちにも、何かできることがあるのかもしれません。でも今は、一緒に署名活動した、一回りも年下の若いママや、臨月の彼女と再会して、ひとまず喜び合いたい気持ちでいっぱいです。そして、本当にたくさんの方々に支えられたことにつくづく感謝しています。
12月11日に日本誕生学会のイベントに参加したときに(なにか勉強になるかと行って見たら、私たちの活動を主催者もご存知で、ディスカッションの議題にしてくれました)東京の産科医の方が「上田のお母さんたちがこの活動を得た知識や思いは、産院のこと以外にも、福祉や教育などすべての面で必ず役に立つ。上田市の財産になるよ」と言ってくれたのですが、本当に励まされました。
  署名は、95,671筆をもって終了させていただくことになりました。

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産み育てる悦びのモデル――上田市産院
文・写真 河合 蘭

■全国で2つしかない市営産院

 昨年秋、長野県上田市の上田市産院が廃止になるという知らせが、REBORNに入ってきた。私は、ちょうどその1年前、上田の助産師さんたちに呼んでいただき、上田市産院におじゃましていた。上田市産院は日本に2つしかない市営出産施設である。敗戦後まもない昭和27年、低所得層への保健政策としてこの産院は生まれた。昭和43年に改築されてはいるが、それでも見れば懐かしくなるような小さな建物で、乳児院を裏手に背負っている。そこには高度医療施設とはまったく違った、昭和の母子保健の歴史を感じさせる風情があった。
  だが、産院は古いだけの施設ではなかった。かねがね母乳育児に熱心だったこの施設は、その支援方法をEBMに基づいたやり方に変え、フリースタイル出産などの自然出産にも本格的に取り組んでいった。口コミで、分娩件数が増加し始め、2000年には、WHOとユニセフの「ベビーフレンドリーホスピタル(赤ちゃんにやさしい病院)」の称号も受けた。04年年度出生数は前年度に較べて29.5%増の483人(市全体の約1/4に相当)となり、5期連続の黒字と経営もすっかり安定した。

■産科医が27名も消えた長野県

  そんな矢先の廃止ニュースは、誰にとっても驚きだった。2005年8月、上田市産院に医師を派遣してきた信州大学の医局が、産院の甲藤一男院長を呼び、医師派遣をやむなく中止すると告げた。理由は、昨今、全国で悩まされている「産科医不足」。信大医学部の産科婦人科学教室教授・小西郁生氏によると、平成16年から、退職、研修医制度の引き上げで長野県内から産婦人科の勤務医が27名も減ってしまったという。これを新人医師15名が補おうと頑張ってはいるが十分ではなく、県内に20施設ある信大関連病院はピンチに陥っている。2人くらいの医師で400〜600件の分娩、搬送受け入れ、婦人科手術をこなしている病院も多く、地域の基幹病院なのに医師がふらふらになっているというのだ。
  そこで信大としては、施設数を減らして分娩を集約し、そこに限られた数の医師を効率よく配置して勤務医が過労で倒れないようにしたいと考えた。信大関連病院は、上田市産院以外は二次医療施設。そして「より困った地域・病院に医師を回す」ことが医師派遣の原則と考えれば、上田市産院は、真っ先に消えてしまう立場にあった。信大は、上田市産院に回されている2名の医師にそばの規模が大きな病院へ移ってもらって、上田の二次医療マンパワーを増強しようとしたのである。
  「上田市産院の方々が一生賢明に母乳育児やいいお産をやってこられたのは、わかります。だからこそ閉院反対運動が起きたのでしょう。でも、何かあったときに搬送できる2次医療施設がきちとしていなくては、1次医療は根なし草です。まずは、2次医療を守っていかなければなりません」(小西郁生教授)

■あきらめられなかった家族たち

 市は上田市産院を存続させたいと思い手を尽くしたが、継続ということを考えると見通しは立たなかった。産院の中にも「信大がそういう意向ならばしかたがない」という空気が流れた。しかし、産院で出産した女性と夫たちは、報道を見て母の会を結成、署名運動を開始した。感動的な親子のスタートを切った場所は、彼女たちにとって身体の一部だったのかもしれない。
  母の会、上田市、信大の意見交換が活発におこなわれた。それはまた、「二次医療の危機」という少なからずショッキングな問題が、市民へ唐突に暴露された過程でもあった。「私たちが、あのいい産院でもう一度産みたいと思うのは、贅沢でわがままなことなのか?」そんな苦しい気持ちを抱きながら、母の会のメンバーたちは上田市産院の価値を訴え続けた。署名数は目標の6万を大きく上回った。上田市産院へ行きたいと申し出た医師が信大医局員から出たこともあって、翌年1月、存続が正式に決まった。

写真:母乳ケアをしながら、お産の話、家族の話に耳を傾ける助産師の黒澤さん。

■助産師は組み込まれるか

  しかし今、上田市では「存続決定は本当の始まりだ」という声が高い。信大から、上田市における産科救急態勢の整備という宿題を出されたということだ。しかし、医師の絶対数が増えてはいない中で、上田市に一体どんな道があるのか。上田市健康福祉部部長の土屋朝義氏は、上田市内の基幹病院である国立長野病院と話し合い暗中模索を開始している。
「院内助産院のような形を作り、正常出産に助産師を活用していけば医師不足を補っていくこともできるかもしれません。いろいろな可能性を探りたい」(土屋朝義氏)
  今回の騒動は、母乳育児、正常出産ケアを追究してきた全国の産科関係者から注目され、グッドニュースに終わった数少ない事例として拍手喝采を浴びた。しかし、私は、分娩予約再開決定からまもない1月15日、母の会勉強会のため上田を訪れたのだが、当事者の方々には「これからが正念場」という緊張感が漂っていたのも事実である。限られた医師という資源を、どう配分すべきか。助産師がそこに組み込まれるべきなら、そのためには何が必要か。
  そして、出産施設の役割についても再考されなければならないと私は思うのだ。人々は、出産施設に何を期待しているだろうか?「命を守ることが最優先なのはもちろんだが、それ以上を望むのはわがままなのか」いとう、今回、母の会メンバー達が悩んだ疑問には、誰かがノーと言ってあげてほしい。100人にひとりの事例を救うことが大切なのは言うまでもないが、同時に、99人に優れた正常ケアを提供し、自信に満ちた育児のスタートを切ってもらうことも産科関係者の社会的使命である。医師は重症患者へ関心が集中しやすい世界に生きているが、そこを、市民全体のため、常に後者の役割も思い出してもらい、必要ならば他の職種とも協力し合うよう働きかけるのは行政の使命である。

■母乳育児は産科学ではなく「育児学」

 私は、上田市産院はなくしてはならなかったと思う。ごく普通に産んで育てる大多数への支援施設として、地域のモデルとなり、この道のエキスパートを輩出する場になるという重要な役割を持っていたからだ。平凡に生まれた親子をケアする技は、高度医療施設では学びにくい。特に、今は2次医療施設が人手不足なのだ。上田市産院に移ってきて3年目の助産師・黒澤かおりさんは、ここに来て国際認定ラクテーションコンサルタント(IBCLC)資格を獲得した。「以前勤務していた大学病院などでも精一杯の母乳ケアをしてきましたが、施設が一丸となって母乳育児を頑張っている上田市産院に来て、もっと知識や技術が欲しいと思うようになったのです」と言う。
  それは「育児学」なのかも知れない。母乳育児や正常出産ケアが果たして医療なのだろうか?これを、いつまでも産科学の権力構造の中に置いておくと、産科に余力がなくなった今、ふとしたはずみに消えてしまうのではないかという不安を覚える。枠組みを変えてしまうのはどうだろうか。例えば上田市産院は、高度医療ができない出産施設としてとらえるのではなく、出産もできる高度な育児支援センターになるという道もある。上田市の土屋部長も、案として、小児科の併設を検討したいと言う。高度医療施設で出産したハイリスクの人が、退院後に上田市産院へ来て入念な母乳育児ケアを受けるのもいいと思う。基幹病院のスタッフが母乳ケア研修に来ることも出来るだろう。高度医療が1次医療をサポートするだけではなく、1次医療も高度医療を補う。

●悦びが消えて、お産嫌いの社会ができた

 あたたかいお産や母乳育児は贅沢品だろうか。確かに、家族にとって、あたたかいお産がどんなにいつまでも鮮やかで、決定的な記憶になり育児を支え続けるかということは、他人には見えにくい。それは人が心の一番奥で感じることで、統計などに表れはしない。しかし、今回の上田市の母親たちの会がとった行動は、その悦びの強さが、目に見える形をとったのだと思う。彼女たちが市で、シンポジウムで語ってきたのは、誰かへの非難でも抗議でもなく、「あの日」の悦びだった。長くつらい育児、私たちには悦びが必要だからとりあげないで、と彼女たちは訴えたのだと思う。その悦びが社会にもっと広く伝われば、おそらく、産科医を志す医師は増える。なぜ、こんなにも、医師も、女性も、社会全体がお産嫌いになってしまったのかを考えると、悦びが見えにくくなり、恐怖や不信ばかりが肥大したからではないだろうか。
  上田市産院は建物が老朽化しているということもあり、いろいろな意味で重大な岐路に立っている。甲藤院長は「今回の存続運動は本当にうれしかった。医師人生の中でも、冥利に尽きる」と言うが、それに応えるための道のりが平坦でないことはわかっている。でも、上田には、上田市産院を求めている女性たちが、確かにいる。「お母さんたちは産院に支えられたと言ってくれたけれど、違います。本当は、私たちが支えられているんです」黒澤助産師のこの言葉は、産院スタッフの今の熱い気持ちを何よりも表しているだろう。

写真:甲藤院長は、「上田市産院に来るまで、母乳に注目したことはなかった」と言うが、今や妊婦さんにみずから母乳育児の意義を伝える。

『いいお産』を望み上田市産院存続を求める母の会ブログ
http://blog.goo.ne.jp/keep-s/

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