守られたベビーフレンドリーホスピタル 上田市産院の閉院危機から存続決定まで |
構成/河合 蘭 |
全国で、産科医不足による産科のとりやめ・施設統合が進む中、長野県上田市にあるベビーフレンドリーホスピタル認定施設・上田市産院でひとつのドラマがありました。 写真:上田市産院存続運動の一部始終は信濃毎日新聞で報道され、市民が状況をよく知ることができた。 わたしたちの上田市産院存続活動 文・小滝良子(『いいお産』を望み産院存続を求める母の会) 産み育てる悦びのモデル――上田市産院 文・写真 河合 蘭 |
わたしたちの上田市産院存続活動 文・小滝良子(『いいお産』を望み産院存続を求める母の会) |
■不安な仲間たち 昨年10月末、全く唐突に、私が8ヶ月前に出産したばかりの上田市産院が、信州大学が医師派遣を打ち切るために廃止の危機であるという報道がされました。 ■「私と同じだ」 やがて、「みなさんの産院への思いを、ここにおられる議員さんやマスコミに向けて話してください」と呼びかけがあり、今日のメインがこれなんだなと分かった反面、この大人数を前に、自分の子どもを追いかけつつ、授乳しつつでちゃんと話が聞けているかもわからない状態の母たちが、この上立って発言するだろうか?とたちまち心配になりました。しかし、私の胸の内に反して発言の手はぽつりぽつりと上がり続け、母親たちの産院への思いの吐露は、途切れることがなかったのです。それは感動的な光景でした。 ■お産への大きな「無理解」「無関心」 まずは19日の「市長と話す日」に向けた準備、そして署名集め。「市長と話す日」は毎月あり、市民がハガキで応募して枠をもらいます。「眠っている間にも産院がなくなるかと怖くて、涙が止まらない」と話してくれた母がいましたが、日常生活の中で常に、みんながそんな本能的とも言える不安感に動かされていました。また、初めの混乱が去ってみると、こんなに簡単に廃院論が出る背景にある『お産』というものへの大きな無理解・無関心を感じ、まずはお産ってどこの病院でしても同じわけではないんだ、ということから話さなくては・・・お産の体験のない男性たちに、私たちの嬉しかったこと辛かったことをどう話せば伝わるのか・・・と考えはじめました。『お産』への無理解・無関心は市だけでなく、世間全体のものだ、とあらためて実感したのもこのときです。これから闘おうとするものの大きさを感じました。 ■上田市長と会った日 結局父母と子どもたち総勢60人余りが市役所の講堂へ。それぞれがかなり個人的な経験を話すのを、市長は熱心に聴いておられました。産院への感謝と廃止の不安からみな声がつまり、参加した父親から「母親たちがみな感情的になるのは、産院が感情的にさせるような貴重な病院であることのあらわれです」とフォローがあったほどです。その必死さがどの程度届いているのか、産院は単にお産のケアだけでなく、医療者の接し方次第でその後の育児にまで続く支援になるんだということがどれほど伝わったか、不安でした。私は、どうしたら男性の市長に伝わるか?を考えた末、終末ケアのことを例にとってみました。死を迎える人への医療は、ほんの20年前には医療の一分野ではなかった。しかしその大切さ、医療者でなくてはできない心へのケアが見直され、今は立派に研究と実践がなされ、誰からも認識されている。育児のスタート地点であるという観点からのお産のケアも、まだ形のないもので、見えにくいものだが、産院ではそういう意識をもって実践が行われ、母親たちは大きな支えを得て育児へ移っていく。産む人の主体性を重んじてもらうこと―――産み方を選べること一つが母としての自信になる。どうかそれを大事なものだと思って欲しい、市の財産としてなくさないで欲しい。 ■市の記録を塗り変える署名数 署名はぞくぞくと集ってきていました。私自身は上田に知り合いがなく、でもじっとしていられない思いで、子どもをしょって週末のスーパーに立ったり、住むマンションを1軒ずつ回ったりしました。知らないお宅のベルを鳴らしてまで、と、自分の行動に自分で驚く日々でした。(この からだの奥底から沸くような居てもたってもいられない気持ち、が自分でも不思議なのです。産み場所って女性にとって特別なものだってことでしょうか) 結局市長に初めに提出した11月29日には、8万近くが集まり、(上田市の人口は13万弱です)誰よりも私たち母の会が一番驚く結果となりました。母親たちが自分の職場などから集めたものが凄い数に昇ったうえに、全国の助産師さんたち、病院のスタッフからも届いていたのです。ちなみに、これは、私鉄廃止反対の、全戸に回る回覧板で集めた署名数を超えて、上田市の記録となりました。 ■わがままなのだろうか? そのころ、人事権を握る信大の小西産婦人科教授の、「我々は高次医療への医師派遣を止めることはできない。救える命を見殺しにはできない。だから派遣を止める病院もでてくる」という発言をマスコミを通して聞いてもいました。産院は高次医療施設ではない、それでは公的病院の役割を果たしていないのでは?というのも派遣見送りの根拠です。(上田市にはもと国立病院・現独立行政法人の長野病院という大きな病院があり、産院とは歩いてもいける近さです、NICUもあるし、いざとなればそこに搬送すると思っていました)もちろん産院でも手術もしますし、個人病院ではよく話を聞かずに断られたが、持病がある自分の分娩を扱ってくれた、という声も多く聞いています。搬送率も年間ほんの数%です。産院のお産は安全ではない? それは私たちにはわからなかったことでした。 私たちはたまたま安産で、産む人の主体性を重んじてもらうお産を産院で実現できた。しかし今後は、ほかの地域や、高度な医療を必要とするお産の場から医師をもぎとってしかそんなお産は実現できないのだろうか? 私たちは自分さえよければいいと思い知事にお願いしにきたのだろうか? 思いだけで突っ走ってきた活動が大きな壁にぶちあたりました。 ■高次医療施設のお母さんと会う まずは助産師さんの紹介で長野市の「小さく生まれた赤ちゃんの親の会 クレッシェンド」のみなさんの定例会におじゃまできることになりました。お会いするにあたっては、ずいぶん緊張しました。私たちの活動に、思いがけず傷ついている方もいるかもしれない・・・しかし、その雪の日集まっていたお母さんたちは、私たちを明るく迎え入れ、ご自分の出産体験をわかりやすく話してくれました。 ■5つもNICUがあった県立子ども病院 また、長野県では最高次の医療施設、県立こども病院の新生児科にも見学をさせていただけることになりました。5つもあるNICU、分娩室のすぐ隣は蘇生室だという事実が重かったです。お産直後に小児科の中でもさらに細かく分かれたそれぞれの専門医がチームを組んで赤ちゃんを救うこと、搬送や逆搬送のこと、などなど、施設の見学をしながら師長にお話を伺う、貴重な体験ができたのです。聞くわたしたちは皆お産の体験者でありながら、ほとんど初めて、お産には何が起こるかわからない、誰にとっても、高次の医療のバックアップは必要、ということをひしひしと実感しました。そして、今度ははっきりと、こういった高次医療施設と、産院と、やはり両方あってほしいんだ、という気持ちが固まってくるのを感じました。上田地域にも2次医療施設がある中で、産院があってもいいのではないか・・・全国での十分な医師数確保には長い年月がかかる、一息に長年かかって作り上げた産院を無くしてしまう以外の選択肢だってあるのではないか・・・ ■市主催のシンポジウムで教授が講演 こども病院の見学の直後、市主催の「地域医療を考える」シンポジウムがありました。小西教授が基調講演をされ、上田市の医師会などがパネリストとなっての会です。市からは母の会にもパネリストとして参加するよう要請されましたが、急に寒さが厳しくなり、私たちの子どもたちは軒並み風邪で倒れ出し、見学もパネラー参加も母の会内で交代が相次ぎ、存続は見えて来ず、とても苦しい時期でした。 ■いいお産って何だろう? 私たちはこども病院見学後、自分たちの知っていた産院でのお産に安全の確保の必要性という新たな観点が加わったこと、そもそも『いいお産』ってなんだろう? 私たちがこれほど産院でのお産に愛着をもったのには理由があるのだろうか? などなど活動を通して生まれたお産への疑問について知る機会が欲しく、また母の会の活動を途切れさせてはならないという一念で、1月15日に勉強会を企画しました。大葉ナナコ氏、河合蘭氏のほか、いいお産プロジェクト理事原氏、そしてこども病院から赤羽師長がいらしてくださいました。産院スタッフの多くが手伝ってくれました。 ■ 95,671筆の署名活動を終えて 1月24日、市が会見を開き、先の医師の正式採用と産院の存続を宣言しました。この医師は諏訪の人ですが信大の医局の所属。では始めの方針を信大が変えて、医師派遣を決めたかというと、「医師本人の意向を尊重した。信大としての派遣ではない」とのこと。上田市も、長野病院との連携を強めこれまで以上に緊急事態に対応できるように産院や市内の体制を整えることを約束し、それなら、ということでこうなったみたいです。また、近郊の市に住み週の半分は他県で勤務の60歳の医師も非常勤で産院に来るとのこと。これまで以上の充実となります。 |
産み育てる悦びのモデル――上田市産院 文・写真 河合 蘭 |
■全国で2つしかない市営産院 昨年秋、長野県上田市の上田市産院が廃止になるという知らせが、REBORNに入ってきた。私は、ちょうどその1年前、上田の助産師さんたちに呼んでいただき、上田市産院におじゃましていた。上田市産院は日本に2つしかない市営出産施設である。敗戦後まもない昭和27年、低所得層への保健政策としてこの産院は生まれた。昭和43年に改築されてはいるが、それでも見れば懐かしくなるような小さな建物で、乳児院を裏手に背負っている。そこには高度医療施設とはまったく違った、昭和の母子保健の歴史を感じさせる風情があった。 ■産科医が27名も消えた長野県 そんな矢先の廃止ニュースは、誰にとっても驚きだった。2005年8月、上田市産院に医師を派遣してきた信州大学の医局が、産院の甲藤一男院長を呼び、医師派遣をやむなく中止すると告げた。理由は、昨今、全国で悩まされている「産科医不足」。信大医学部の産科婦人科学教室教授・小西郁生氏によると、平成16年から、退職、研修医制度の引き上げで長野県内から産婦人科の勤務医が27名も減ってしまったという。これを新人医師15名が補おうと頑張ってはいるが十分ではなく、県内に20施設ある信大関連病院はピンチに陥っている。2人くらいの医師で400〜600件の分娩、搬送受け入れ、婦人科手術をこなしている病院も多く、地域の基幹病院なのに医師がふらふらになっているというのだ。 ■あきらめられなかった家族たち 市は上田市産院を存続させたいと思い手を尽くしたが、継続ということを考えると見通しは立たなかった。産院の中にも「信大がそういう意向ならばしかたがない」という空気が流れた。しかし、産院で出産した女性と夫たちは、報道を見て母の会を結成、署名運動を開始した。感動的な親子のスタートを切った場所は、彼女たちにとって身体の一部だったのかもしれない。 ■助産師は組み込まれるか しかし今、上田市では「存続決定は本当の始まりだ」という声が高い。信大から、上田市における産科救急態勢の整備という宿題を出されたということだ。しかし、医師の絶対数が増えてはいない中で、上田市に一体どんな道があるのか。上田市健康福祉部部長の土屋朝義氏は、上田市内の基幹病院である国立長野病院と話し合い暗中模索を開始している。 ■母乳育児は産科学ではなく「育児学」 私は、上田市産院はなくしてはならなかったと思う。ごく普通に産んで育てる大多数への支援施設として、地域のモデルとなり、この道のエキスパートを輩出する場になるという重要な役割を持っていたからだ。平凡に生まれた親子をケアする技は、高度医療施設では学びにくい。特に、今は2次医療施設が人手不足なのだ。上田市産院に移ってきて3年目の助産師・黒澤かおりさんは、ここに来て国際認定ラクテーションコンサルタント(IBCLC)資格を獲得した。「以前勤務していた大学病院などでも精一杯の母乳ケアをしてきましたが、施設が一丸となって母乳育児を頑張っている上田市産院に来て、もっと知識や技術が欲しいと思うようになったのです」と言う。 ●悦びが消えて、お産嫌いの社会ができた あたたかいお産や母乳育児は贅沢品だろうか。確かに、家族にとって、あたたかいお産がどんなにいつまでも鮮やかで、決定的な記憶になり育児を支え続けるかということは、他人には見えにくい。それは人が心の一番奥で感じることで、統計などに表れはしない。しかし、今回の上田市の母親たちの会がとった行動は、その悦びの強さが、目に見える形をとったのだと思う。彼女たちが市で、シンポジウムで語ってきたのは、誰かへの非難でも抗議でもなく、「あの日」の悦びだった。長くつらい育児、私たちには悦びが必要だからとりあげないで、と彼女たちは訴えたのだと思う。その悦びが社会にもっと広く伝われば、おそらく、産科医を志す医師は増える。なぜ、こんなにも、医師も、女性も、社会全体がお産嫌いになってしまったのかを考えると、悦びが見えにくくなり、恐怖や不信ばかりが肥大したからではないだろうか。 『いいお産』を望み上田市産院存続を求める母の会ブログ |
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