開業助産婦日記

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 はじめての入院・手術?!

三宅はつえ


 物語はいつも、電話のベルで始まる…
「もしもし、日赤の○○です。2〜3日中に外来を受診して下さい」
 一瞬何のことだかわからなかったが、次の瞬間「あちゃ〜!」と思った。先週受けた子宮癌検診の結果が1週間後で出なかったので、翌週再診と言われていたのだ。電話でのお呼び出しとくればもう、それしかないではないか!
 結構ドキドキしながら外来を受診。渡された紙には「細胞診クラス分類と組織型との対応」とあり、クラスWに赤丸がついていた… 速攻で翌日には埼玉県立ガンセンターを受診し、20日後の手術が決定。めまぐるしい日々が始まった。
 実はこの時、すでに37週を越えた自宅出産の方を抱えていた。なんとかお断りしなければならないが、妊婦さんに不安を与えないようにするには何といったらよいか。まさに「ドタキャン」なのだから、中途半端ないいわけでは納得して貰えないだろう。かといって、これからお産をする方に「子宮癌」という病名は、あまりにもショッキングで伝えられない。結局「待ったなしの入院・手術」という釈然としない理由でご理解いただいた。 せっかく「自宅出産を」という思いを暖めてきた方に、いきなり「病院で産んで下さい」も言いづらいが、なんといっても茨城県南西部は「開業助産婦過疎地帯」。おいそれと頼める仲間もいないが、そう言えば、県南のM助産院で今年から自宅出産にも対応し始めたことを思い出し、S先生に事情を話す。経産婦で、産宅まで車で1時間15分というのは、お願いする方としても気が引けたが「そう言うことなら、最善を尽くしましょう」と快く受けていただけだ。
 私の家より遠くから助産婦が駆けつけるということに、妊婦さんの実母はちょっと顔を曇らせた。私が受けたときから彼女の最大の心配事は「お産に助産婦が間に合わなかったらどうしよう」ということだった。私との関係もそれなりに出来上がっていたので、新しい人と気心が知れるか、それも心配だったようだ。
 38週0日。S先生が産宅を訪問してくれる。なにがしかの橋渡しに、私も同席させていただいた。S先生の印象は「教師をしていた姉に似ている」とのことで、実母も安心した様子。次の健診は助産院で、ということでI町まで上の子も連れて車でドライブ。最初は場所見知りしていたお兄ちゃんも、助産院のスタッフが遊んでくれているうちに「まだ帰りたくな〜い」と、すっかり馴染んでくれた。経産婦さんのお産は、上の子達が受け入れてくれるかどうかも、良いお産につながる大きなポイントだ。
 少しは胸をなで下ろし、翌月、翌々月の方も、それぞれにお話ししてお断りした。これでお産は大丈夫。あとは保健センターと新生児訪問を受けているクリニック。育児相談員をしているスーパーに事情を説明する。週に1回当直に出かけている助産院にもだ。
 病院に勤めていれば直属の上司に一言話せば、それで話は済むだろうが、個人開業だとそうはいかない。ひとつひとつ事情を説明してお断りしなければならない。2ヶ月も休むとなれば「何の病気なの?」と聞かる。相手は殆どが医療従事者だから「子宮癌でOpeするの」で済むが、医療職でない友人達は大騒ぎだった。「わかった、葬式の手配は私がするわ」と互助会に勤める中学からの友人。「それなら私が司会をするわよ」と「妊娠の有無を問わないマタニティークラス『桃の花倶楽部』」を共同参画する友人。それなら私は形見分けのリストを… なんて、みんなで気の早いこと。でも「美人薄命」という四文字熟語は私には似合わないようで、Ope後1ヶ月で早くも仕事に復帰し、すっかり元気な今日この頃。入院生活はすでに記憶の彼方となった。
 手術が終わってぽっかり目を開けたとき、相方に「S先生に無事終わったって連絡してくれた?」と聞くと「赤ちゃん、産まれたって」…なんとも不思議なご縁を感じた。取りあげていなくても、この子の誕生日は生涯忘れられない。
 最後の健診の時には「3人目の時にはよろしくお願いしますね」といっていただけた。やんちゃ盛りのお兄ちゃんと、おしゃまな女の子に育ち上がった彼女に会えるのは、来年か、再来年か。その日が来るのが待ち遠しい。

REBORN第21号1998年10月に掲載したものです。

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