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釜石と遠野へ 2007/03/31

岩波ブックレットのために、長野続いて2回目の地方取材に出ました。今度は岩手です。産科医不足の県として全国的にも厳しい状況の岩手は、行ってみると確かにものすごく広い。四国がすっぽり入るとか、関東の4県が入るとか言われています。

新幹線を新花巻で降り、山間を縫って走る単線の釜石線に乗りました。前日は25度の陽気だった東京から一転して花巻は雪です。雪の木々の間を1時間ほど行くと仙人峠という険しい峠にさしかかり、そこを超えるとがらりと気候が変わって明るい海の町に出ました。三陸の海の幸に恵まれた釜石の町です。

今回の取材のメインは、ここにある県立釜石病院副院長の小笠原先生と、仙人峠の向こうの遠野市を光ハイウエイで結んだモバイル妊婦健診です。

遠野市は市内で出産が出来なくなってから5年が経過しています。そこで通院の負担を軽くするため、遠野市が市内の開業助産師さんを臨時職員として妊婦健診を始めたのです。紀子さまが使ったのと同じ機械を使って遠野でモニターをとると、それが釜石の小笠原先生のところへ飛びます。それから小笠原先生が画面に現れ、「心配ないですネ」などとテレビ会議のように妊婦さんと会話を交わします。

遠野市は、妊婦健診や産褥入院ができる市営の助産院設立に向けても動き出しています。産科医が来るという望みが非常に薄い遠野。市の力で、子どもたちが生まれてくるのを護ろうとし始めているのです。

遠野が気になりだしたのは「医師が来てくれたら馬をプレゼント」という呼びかけをしていることを知ったときでした。そのユーモアセンス、さすが「遠野物語」の町だと思っていたのですが、ついに行ってしまったのでした。

ちなみに遠野は、菊池さんと佐々木さんが全市民の姓の4割近くを占める町でした。だから市の職員さんたちも「○○さん」とファーストネームで呼び合っていて、私にはこれがとても印象的でした。男性も女性もそうなのです。

これこそ現地に行かなければ知ることがない事実でしたが、人と人の距離感を絶対縮めているのではないかと、勝手に確信いたしました。何でもないことのようですが、東京を出ると、そんなところに人間力を感じます。


春分の日の朝陽 2007/03/23

「すごい!明日は春分の日だ」と、その夜、穂高の助産院「ウテキアニ」にいた私はトツゼン気づいて、嬉しくなってしまいました。20日、21日と長野取材に出ていた時のことです。

私は、取材の段取り中、春分の日のことなど何とも思っていませんでした。情けないことに、「あー忙しい、忙しい。この忙しいのに週の真ん中にお休みがあるなんて」と思っていたくらい。それが、長野に入り、アルプスを見て冷たい空気を吸っているうちに少しまともになったのでしょう。

ウテキアニは、氏神様の鳥居の真ん前に、参道に面して建ち、ふりむけば北アルプスの全貌を欲しいままにするという大変な立地条件の助産院です。ここの主・高橋小百合さんは私の非常に古い友人なのですが、この度初めておじゃましたのでした。

間近の神社の真後ろから、思った通り、春分の日の太陽は昇ってきました。ただ、地平線は、お社で見えないのですね。でも、少し上ってくれると、正面から朝陽が見えてきました。

鳥居からまっすぐに、朝陽は穂高の山々を照らしました。まっすぐにまっすぐに、春分の日というバランスの日の朝陽。

美しかった穂高。今も目を閉じると、それだけで瞑想に入っていきそうです。大糸線という「北アルプス線」に乗って長野から佐久へ。そこでは、在宅での看取りを20年以上続けてこられた先生にインタビューさせていただき、またまた命の洗濯をさせていただきました。


サクラサク 2007/02/11

やっと息子の大学受験が終わりました。何とか第一希望のところに入ってくれて、やれやれ。

本当に、保育関係の学部に行ってしまった息子。子どもの命をあずかる責任の重さと、食べていけるの?と思われる待遇のミックスである保育士さんの仕事。やりがいをすごく感じる人と、あっという間にやめてしまう人がいるのも特徴かもしれません。ともあれ、自分が進みたい道を具体的に見つけてくれたのだから、そこを本気で歩いて欲しいと思います。

ひとつ、この息子が保育士に興味を持った背景として、私には思い当たることがあります。それは、私たちが世田谷の太子堂に住んでいた時、当時二歳だった息子は、「あそびの会」というとてもユニークな自主保育に通っていました。経営者の石川由喜夫氏は信念を持った保育者で、野外活動で組み立てられた徹底して遊び切る保育をしていました。

ともかくとんでもなくたくさん歩くのです。二歳児だって1時間は歩かされました。世田谷区、目黒区あたりのたくさんの公園が会の活動の場でした。ちょっと歩いては「だっこー」の時期ですから、これは信じがたい光景でした。しかし子どもというものはやる環境にあればやってしまうし、劇なども就学前の子たちとはとても思えないものをするので、保護者たちは涙、涙の感動だったという記憶があります。一学年10人の小さな小さな保育でした。

転居してしまったのでこの生活は一年で終わってしまいました。二歳のことで、息子には記憶がないそうです。

でも、合格が決まるにあたって、あそびの会のアルバムを出してきて見せました。どれだけすごい保育をいただいていたか、話すならこのときしかないと思いました。そしてネットで調べてみたら、とすすめたら、なんとあそびの会が今でも同じ活動を続けていると知り、すごく嬉しくなりました。

息子には意識下の財産ですが、これが目を覚まして何かを起こしてくれるといいなと親としては期待です。