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蜂に刺される 2010/08/29

夏も駆け足で過ぎ去っていく気配。

夏の終わりを、野田聖子さんの妊娠で急にあわただしくなりながら過ごしています。「日経ウーマン」の記事、週刊誌や新聞へのコメントなど。私はスタンスとしては、『私は、産みたい』の一読者として野田さんのエネルギーなら大丈夫では、と思うので今回のことは応援したい気持ちでいます。

卵子提供は、年齢に左右されない体外受精ができるという、高齢妊娠の方には夢のような方法です。しかし、他人の卵子をもらうということはやはり最後の手段となるため、産後は精根尽き果てる方がいるということは数年前からよく耳にすることです。たとえ経済事情が許しても、誰にでもできることではありません。

不妊治療は、どこまでやるかはご夫婦の自由。排卵日を特定してもらうこと以上はしないという方もいて、それもひとつの勇気ですし、沢山の答が許容される社会であってほしいです。

さて写真なのですが、今年二つ目の蜂の巣です。蜂の当たり年でした。実はセミも蝶も何もかもという感じなのですが、ともかく虫が多い。

ひとつ目は、5月ごろ見つけたアシナガバチの巣。落としたいと思いながら、女王蜂が一生懸命守っているのを見ると職業柄ついつい仏心が起き、放置していました。ホントにはじめのころは何も悪さをしない雰囲気で共存していたのです。

それが8月なかごろ、にわかに集団が大きくなり、5月からずっと見ていた私には何か胸騒ぎがするようになり、「こわい」という3文字が頭に浮かんだその朝、予感は的中して二箇所刺されてしまいました。あっという間のできごと・・・

もうこわいので、業者さんをお願いし、家族一同居間からガラス越しに見守る中、蜂退治ショーが繰り広げられました。虫取り網を巣全体に慎重にかぶせた上で、スプレーを一吹き。あとは巣をはずし、帰巣してくる蜂を虫取り網で次々に捕獲。お値段は二万円也。再び巣ができた時の再出動保障として14日のアフターサービス付。

約100匹の集団と言われました。秋口、集団が大きくなる頃、蜂は気が立ってくるのだそうです。次の女王蜂が生まれる時期だとも言われています。

ほっとしたのもつかの間、その後、子どものお友達が遊びに来て第2の巣を発見してくれました。また蜂退治マンに出動を要請。

そしてまた、今日、第3の巣が発見されました・・・いつまで続くのでしょう?


イベント終わって、お盆休み 2010/08/11

周囲にお休みの方が多くて静かな今週。そろそろお盆休み体制ですね。

そして、きょうはすばらしい青空です。皆さん仕事がお休みで、きのうは西日本に台風も来たのでこんなにきれいな空なんでしょうね。元ちとせさんのCDタイトルで知った「はなだ色」とはこの色ですね。まさに。

わが家は夫はお休みをもう終わってしまったので普通に出社し、社会人2年生の長女はお休みを満喫しています。今朝は長女と末娘と私の3人で、15分くらいでしたが朝ヨガしました。

8月8日にアジアやアフリカで母子保健プロジェクトに携わっている永井周子さんをお迎えしてREBORN講演会「これからのカンガルーケア」をいたしました。私にとって久しぶりに自分が企画したイベント。ありがたいことに予備席を出してぎりぎり、ひやひやするくらい沢山の方のご来場を全国からいただき、熱い半日となりました。

『安全なお産、安心なお産−「つながり」で築く、壊れない医療』で新生児の先生たちとのつながりが広がり、安全性それも赤ちゃんの命のはかなさというところに気持ちが行ってこのイベントを企画しました。

お産を終えるとお母さんは巨大な開放感に満たされますけれど、そこからしばらくは赤ちゃんには肺呼吸への大転換に慣れていく時間です。米国ではこの時期に特に手厚いアセスメント体制を敷くガイドラインを産婦人科と小児科医の学会が合同で作っていて、transition care(移行期ケア)と呼ばれています。この時に人がいないことのリスクが、すなわちカンガルーケア事故報道の根っこであることはほぼ明らかと思われます。

ずっと以前に聞いた話ですが。ある女性が自宅出産をして、そのあとひとりになってしまう時間があって、その時間がとても怖かったんだそうです。それは「誰かが赤ちゃんを取りに来る」という恐怖だったのだそうです。彼女は本能的にリスクをとらえていたんですね。それで、大事に大事に赤ちゃんをかかえていたのだそうです。

いつから女性は赤ちゃんの命を人にゆだねるようになったのでしょうか。今は助産院で産んでも、やっばりどこか専門家に頼って自分1人で守ろうとする人なんかほとんどいないですよね。

私は医療システムとか科学的根拠などについて書くことも多いですが、原点を思い出すというか、そこも大切だとよく思います。親も、何かあったら何よりもつらく感じるのは、自分が守れなかったという痛みではないでしょうか。


"水都"大垣のさくら 2010/04/03

愛知県知立市「よいお産の日」というイベントで講演に呼んでいただき、さくら最高潮の東海道を車窓から楽しみながら行ってきました。この地域の基幹病院で師長さんをされていた助産師さんが助産院を最近開業され、呼んでくださいました。赤ちゃん連れのご家族も多く来場されてなごやかなイベントでした。

そしてその前日は、名古屋から東海道本線で足を伸ばして岐阜県大垣市に行って来ました。この静かな城下町は、私が21歳の時に死んだ父のルーツです。行くと河合さんが大変多いです。都内とは逆に河井さんとか川井さんはあまり見かけず、河合さんです。

父は大垣市郊外の築捨という所に育ち、田んぼの中で、家にあった航空便に張られていたフランス切手の美しさに魅せられて仏文学の道を志し、当時は毎日新聞社の場所にあった東京外語大学に進学して東京の人となったそうです。

父はこの東京外語で「ごんぎつね」を書いた新美南吉氏と親しくなり、父の死後、新美さんから父への書簡が多数見つかり、大阪の児童文学館に寄贈されました。築捨の家のお蔵にあったのです。最近、この書簡が、新美さんの故郷・愛知県半田市にある新美南吉記念館に移されることになると聞きました。大阪が財政立て直しのために児童文学館を縮小するためで、ありがたい決定をしてくださいました。

そんな知らせを受け取った矢先でしたし、春休みなので末の娘も連れて大垣に墓参に行ってきました。私はひとりっ子なので、たまにこんなこともしておかないと、子どもたちは自分のルーツがまったくわからなくなってしまいます。

かく言う私も、父が生まれ育ち、叔父がお蔵で書簡を発見したという家が築捨のどこにあるのかわかりません。叔父も亡くなってしまいました。父系統は二代続きの高齢出産で子どもの数も多くなく、私が古い話に興味を持つ前にみんないなくなってしまった感じです。

しかし、過去は必ず時間が押し流していくものです。大垣の人のメンタリティには、それが特に色濃くあるように思います。

大垣のシンボル、それはすべてを流すもの、水です。古くから湧水が豊富な町で、今も市は湧水を大切に整備していてたくさんの人がペットボトルに水を汲みに来る神社もあります。また、ここは古くから水路が発達して東の国、西の国が交わる交通の要所でもありました。

その一方では川がたびたび氾濫し、築いてきたものすべてを失う経験をしてきた町でもあります。大洪水では、お墓も流されてしまうそうです。だから「固執」をしないのです。仏教の盛んな所でもあり、父にも諸行無常の哲学は明確にありました。

私はお産でも「自然か医療か」というようにひとつの見方に100%浸って満足することは決してできないのですが、大垣に来てみると、そんな自分の考え方は、この、めったに来ない町の歴史と遠くからつながっている気がします。

大垣で過ごしたこの一日、さくらが最高の見頃でした。水路を覆うように続くさくら並木を散歩しました。柳の新芽も美しくて、素晴らしい一日でした。

<写真> 汽車の時代になるまで、この水路はたくさんの船が行き交い城下町は活況を呈しました。今も港の灯台は残り、その下には船が一艘浮かべられています。この港で松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を結び、船に乗って伊勢詣りへ向かったそうです。