プロフィール   
河合 蘭  公式サイト
  

松田道雄論の骨格を組む 2015/07/07

寝ても覚めても松田道雄の本・・・に可能な限り近づけて、ようやくこの人の全体が像を結んできた。

京都の町中で天真爛漫に育った少年は文学好きから三高時代マルクス主義という「信仰」を持ち、友人は投獄され、みずからも特高に追われる身となる。しかし戦後に晴れて現実の共産主義国家に触れることになると直ちにいたく失望して虚無主義に。

しかし松田道雄は医師であることが幸運だったと自分で何度か書いている。医師であることで、京都の最下層の人々がやってくる結核の診療所で診断基準を確立し、厚生省が注目するような予防のプランを自主的に作成することで理想をいくらかは実現できていると感じることができた。

そして戦後は代々の気質から誰にも仕えない開業医となり、子どもという弱者のために闘った。保険点数のための過剰医療を徹底的に拒む自由診療の小児科医となったが、それで生計を立てるためには、文才を生かして育児書を書く必要があった。

折しも小さい子どもを抱える母親たちは都市化、核家族化、受験戦争激化の中で、軍国主義的なドイツ育児の流れから来る時間決め授乳、添い寝の禁止、離乳食の早期開始、家にいて子育てに専念することのすすめなどにより現代に続く不安な子育てを始めたところ。

松田道雄の育児指導の武器は、恩師や父親から受け継いだ頑固なまでに丁寧な観察と問診が培った臨床体験、そしてなんといっても漢籍と六カ国語を読みこなす語学力と並外れた読書力であり、その生涯の蔵書の数は書籍16,643冊、和綴じの書物358冊,雑誌が17,000冊に上った。

当時の母親たちが当時首っ引きで読んでいたのは、小児科医が書いた、気候も文化も大きく違う西洋式育児の引き写しだった。それは母から娘へ、またその娘へと伝えてきた母乳育児の知恵を、高度成長時代、ずたずたに破壊して、粉ミルクと密室育児の全盛時代を作りあげた。

松田道雄は今日でいうEBMの実践に撤し(毎日午後は海外の医学雑誌を読んでいたという)、年長の育児に熟練した女性の話も聞き取り、日本を子ども天国と言ったベルツやオルコットが書き残したようなのびのびとした「日本式育児」を提唱、その上に共働きや子どもに自由に遊べる空間がなくなったことを考慮して、母親の就労に関わりなくどの子にも保育園での集団育児が大切であると強調。保育園に、これほど発達上の期待をかけた人はいないだろう。

『育児の百科』は、根気の要る小児科診察ができなくなってきたと感じた60歳寸前の松田道雄が、これからは書物を好きなだけ読んで暮らしたいとみずから企画した。内容は、親たちを振り回している「育児指導」へのアンチテーゼ。その発売を知らせるパンフレットは当時の小児科の権威たちへの挑戦状だった。この本は昭和の大ベストセラーとなった。

「ともかくえばっているものがきらいなのだ」とも書いている松田道雄は反骨の人だった。しかし、それは、ものごとの価値は自分の頭で考えよというだけで、最後まで虚無主義者でもあった松田道雄の著作には勝ちや負けはなく、どこか心地の良い影があり色香がある。戦時中、押し寄せる結核患者たちに毎日死の宣告を行い、解剖をしてという日々の中でも、海女が海上に浮かんでは息継ぎをするように眠る前には文学をむさぼり読んだという、おそらくそうした時間が松田作品の魅力につながっている。

キャリア女性への書簡の形をとった『女と自由と愛』は多様化していく女性読者への知性の贈り物のような一冊。2年半もかかったと記されていて、おそらく最も時間がかかった本のひとつだが分析は実に鮮やか。

晩年は心臓を患うも入院や治療は、断固拒否。かかりつけ医も「これから先生の死にざまを見せてもらいます」と覚悟をくくった。
「活字が読めるあいだ、ビデオが見られるあいだ生きていたい。一切空の虚無であるだけ、人間の想像したもので埋めていきたい。それを可能ならしめる自分の命、それは私だけのものだ」(『幸運な医者』より)

幸せな医者、であったことは間違いがないのだと思う。大学時代、松田道雄は啄木のこんな詩のような未来を、医者をやりながら余暇には本を読むという生活を夢想して楽しんでいた。
「場所は、鉄道に遠からぬ
心置きなき故郷の村のはずれにて選びむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構え、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても
広き階段とバルコンと明るき書斎・・・・・
げにさなり、すわり心地のよき椅子も」
思いどうりの甘やかな暮らしを何十年も楽しんで、松田道雄は21世紀になる直前、90歳の初夏に発作を起こして自宅で亡くなった。

『ひとびとの精神史』第3巻(岩波書店、全9巻)中「『政治の季節』の日常感覚」の一部になるもののアウトラインです。写真の、地がブルーのパンフレットは『育児の百科』が発売された当時の宣材で大変貴重なものです。

今回は育児に焦点を当てます。ただし振り返れば育児ばかりなく、女性の生き方、都市化と地域、老い、安楽死など今日の課題についてあますところなく見事に論じていた松田道雄は、今こそ読み直したい人です。


遅咲きの松田先生 2015/07/01

『ひとびとの精神史』の松田道雄論にとりかかっています。
松田先生は『育児の百科』しか知らない方も少なくないですが実は約百冊の本を出しています。
コンプリートにはほど遠いけれど、おもな本を年齢を計算しながら並べてみました。
すると50代、60代から本格的な執筆が始まっていることがわかりました。こんなに遅咲きの人だったとは!
『私は女性にしか期待しない』は女性の労働について今こそ読みたい本でこれまでも強く支持されてきた岩波新書ですが、80代で、あのようにパワフルな、みずみずしい文章を書かれていたのです。70代後半で書かれた『日常を愛する』などそのほかの晩年の本も素晴らしいです。


シーナからもらったもの 2015/06/24

6月23日、NHKラジオ第一放送「午後のまりやーじゅ」という番組で一時間半という長いトークをさせていただきました。確か、このあたりに「屋根裏」があったよねえ、なんて思いながら渋谷駅から今日はあえてセンター街を通ってNHKへむかう。

尺が長いけれど、ディレクターさんは、以前「ラジオ・ビタミン」という番組でフルに一年間ご一緒した方(三児の母!)なので安心。・・・と思っていたら、私のことを知りすぎている彼女は、何と、私が二十歳の頃のことからしゃべるという提案をしてきたのでした。

例えば、1986年に私が初めてお産を取材した時のこと。

これは、講演などではよく話しているのですが、青森の下北半島で80代のお産婆さんと90代のお産婆さんをたずねたのです。

当時、26歳で第一子を出産したばかりの私は、富士山まで見えちゃう都心のマンションの10階に住み、公園でのママ友トークしかない世界で日々を過ごすことに強い閉塞感を感じていました。それまでしていた雜誌のカメラマンの仕事を、育休だと思ってお休みにしていたのです(フリーだから自分で決めるんですけれどね)。

今も、そんな生活をしているママはたくさんいるのだと思います。そして、それが子どもにとってはママがいつもそばにしてくれるから一番いいことなんだ、という風潮が、日本には根強くあります。でも、はっきり言いましょう。私の考えですが、こと核家族の場合、それはまったくの錯覚です。なぜなら、人間は社会的な存在だからです。1日中、お話もできない子どもとふたりぼっち。時々ふたりぼっちの人同士がおしゃべりする程度。そのことの、一体どこが理想的な子育てなのか、私にはさっぱりわかりませんでした。

だから私は、どこでもいい、私に自分がしていることとはまったく違う風景をみせてくれるどこかへ、私が生き生きとした姿を子どもに見せながら笑いながら子育てをするために必要な何かを探しに、どこかへ行きたかったのです。

そんな時、驚くべき年齢の現役産婆さんの存在を知り、気がついたら私は、当時話題を呼んでいたマタニティ向け雜誌の編集長に会っておりました。そして抽象的な自分の現代育児への疑問をぶちまけ、取材費として、聖徳太子から福沢諭吉に変わってまもないお札を10枚いただき青森に飛んだのでした。

そして、空港まで迎えに来てくれた80代のお産婆さんが「今晩、自宅でお産する人がお産になりそうなんだけれど、来るか?」と突然言い、そこから24時間位の間に、昔ながらのお母さんと赤ちゃんが生まれてからいっときも離れないお産、そして町中の年齢もさまざまな女性たちが赤ちゃんが最近生まれたおうちに大勢集まってきてお産婆さまの到着をわくわくしながら持っている沐浴など、それまでの私には想像もつかなかった地域社会の世界を一気に経験したのです。

興奮して帰京した私は、見てきたお産婆さんの仕事をルポルタージュにまとめ、それに当時日赤医療センター産科部長だった医師のコメントをつけてまとめました。それが私が初めて書いたお産の記事です。私が見たものには、これは、もう絶対に何かがある。私はお産をこれからずっとやっていくことになる、そんな気持ちは、青森を発つ時には、もう自覚していました。

そして、その記事の掲載号が郵便受けに入り、開封した時、私は息をのんだのです。なぜなら、その表紙にいたのは、シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠・シーナ夫婦と3人の子どもたちの家族写真だったのだから。

実は、私が出産前にやっていた写真業の被写体はミュージシャンが中心。その中でも、福岡から、東京に勝負をかけようと上京したばかりだったシーナ&ザ・ロケッツは、ライブにことごとく行っていた時期がありました。映像関係の仲間みんなですごく熱く応援していて、みんな下北沢周辺に住んでいたし、ライブが終わった後は一緒にそのライブのVTRを見て飲んで食べて夜が更けて・・・ということをしょっちゅうやっていました。

イエロー・マジック・オーケストラのステージにも誠ちゃんが客演するようになって、昇り龍の勢いで有名になっていくシーナ&ロケッツ。でも、そんな上昇気流の中で、シーナが時々見せていた、すごく悲しそうな顔に私はすごく驚かされていました。「子どもがおらんと」シーナは、そう言って,時々すごく悲しそうにするのです。その時、誠ちゃん、シーナ夫婦は、まだ小さかった双子の子どもふたりを、福岡のシーナの実家に預けて上京していました。

子どもって、そんなにいいの?

当時、子どもの可愛さなど何もわかっていなかった私にとって、シーナの母性愛、家族愛はそんな風に感じられました。自分に回路がまだないものだから、驚きの対象だったのです。ライブの後のミュージシャンは、それはそれは、皆きれいです。しかも、シーナは、ふつうにしていてもきれいなので、ライブのあとは本当に「どうして」と思うくらい、きれい。そしてどんどん世間の注目をあびるようになっているのに・・・それなのに、そんなに悲しいなんて、子どもって一体どういうものなのだろう? と思いました。

その後、私は諸事情からその仲間たちとは離れてロケッツとも疎遠になってしまうのですが、フリーのカメラマンとして仕事が増えたころ、ふと編集部から薦められてシーナのインタビューに行ったことがあります。シーナの初のソロアルバム「いつだってビューティフル」(1982年)が出た時で、それが、私の初インタビューになりました。そしてこの時、シーナは妊娠中だったのです。私は「お腹に赤ちゃんがいるのってどんな気持ち?」という恥ずかしいような質問をしました。

そして、シーナが、それは特別に素晴らしいことだと連発するのを聞いて、私の中に妊娠への好奇心と憧れがむくむくと持ち上がったのでした。

その3年後、私は自分も産んで、そしてお産婆さんと出会い・・・そして、あの雜誌インタビューの時お腹にいた赤ちゃんが、可愛い女の子になって、誠ちゃんに抱っこされているのを見ることになりました――右上写真の掲載誌の表紙で。

すごく長くなってしまって、これは確実に自然体日記始まって以来の長さですが、あと少し。

今回、ラジオの台本のおかげで、生放送前の数日間シーナ&ザ・ロケッツをずいぶん聴くことになりました。はじめはシーナの曲を一曲かけてもらおうと選ぶだけのはずだったのに、一度聴き始めたら、シーナの声の創りだす強い磁場に吸い込まれてしまったのです。それで生放送の前の晩、フェイスブックでつながっていた誠ちゃんにメッセージを入れると、誠ちゃんは私が撮った35年くらい昔の写真をひっぱり出してきて、その画像ととも全国のフォロアーの方たちに放送のことを紹介してくれた。

私は、音楽写真の仕事は、また戻るのではないかと思いながら自主的な「育休」に入ったのですが、結局、戻りませんでした。そして分娩が終わった後の産婦さんや助産師さんに、あの、ライブのあとのバンドと同じ輝きを見つけるに至りました。

もともと家系には医療関係者が多く元の鞘に収まった面もあります。思えば育休前から、たくさん音楽写真の仕事をしていた時から、周囲にいる音楽ライターやサブカル誌・音楽誌編集者たちの音楽に対する造詣のあまりの深さに「自分はあそこまで行けるのだろうか。行く気があるのだろうか」という自問があったことは確かです。私はどこかで、他の何かを探していました。

でも、探していた何かが青森でいきなり見つかって、それを元へ元へと辿って行くと、そこにはシーナと誠ちゃんの作った素晴らしい家族の姿が浮かび上がります。

しかも、最初の記事が出た雜誌の表紙にまで、ちゃんと居てくれた。

子どもがここにいないと泣いていたシーナ、着物着てみんなで撮った七五三の写真を嬉しそうに見せていたシーナ。あなたのような、愛も、夢も、胸にあふれている女性、他の女性にまで愛する力、夢みる力を与えてしまうような女性がもっと増えればいのに。心からそう思います。

シーナは、音楽に決して妥協はしませんでした。TVの歌番組に出演するようになって、いつものように皆で録画を見ていた時も、シーナは自分が思うように踊れていないと言ってひとりで怒っていた。

ものすごいロマンチストで、とんでもないイマジネーションの持ち主。愛している人の腕の中で死ぬのってすっごくロマンチックで、想像するとドキドキしてくると言っていました。

シーナが死んだと聞いた時、しばらく私はよくわかりませんでした。でも、とりあえずネットを開いてみると、シーナは誠ちゃんの腕の中で息を引き取ったことがわかりました。

あの時、自らの死の場面すらもときめきに変えていたシーナの夢見の力に私は身震いがしたけれど、本当にその、思ったとおりの死を遂げた、パーフェクトな、シーナの命。

若い日にあなたのような女性のそばにいられたことを本当に幸運だったと思います。その幸運を、今度は私が誰かに渡したい。

ありがとう、ありがとう、シーナ。